国土交通省 関東地方整備局 霞ヶ浦河川事務所
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事務所からのお知らせ

  • 霞ヶ浦の歴史・治水対策

    霞ヶ浦の歴史

    現在の「霞ヶ浦」ができるまで~悠久の歳月が生んだ霞ヶ浦の姿

    今から約20万年ほど前、関東地方は「古東京湾」と呼ばれる海だったが、約6,000年前には、銚子方面から海が内陸部に深く入り込んで入江を形成。霞ヶ浦はその入江の一部だった。そして霞ヶ浦が現在の姿に近いものになったのは江戸時代中期のこと。川の運ぶ土砂などによって海との間がせき止められ徐々に現在の姿に近づいていった。さらに江戸時代になると「利根川の東遷事業」が行われ、これにより霞ヶ浦の南東部に運ばれる土砂の量が増え、17世紀中頃には海水との連絡が悪くなり霞ヶ浦は淡水化してゆく。

    • 現在の「霞ヶ浦」ができるまで
    • 現在の「霞ヶ浦」ができるまで

    利根川東遷事業とは~利根川の流れを変えた大工事

    利根川東遷事業とは、江戸時代に行われた利根川の河川改修のこと。かつて利根川は江戸湾(東京湾)に注いでいたが、江戸を水害から守り、同時に新田開発を行うため、代々の徳川将軍は約60年にわたり流路を東側に移動していき、やがて利根川は現在のように千葉県銚子沖へ注ぐようになった。

    「霞ヶ浦舟運物語」

    古くから舟による運搬、「舟運」が物資輸送の根幹であり、霞ヶ浦は重要な交通路であった。

    江戸時代の重要な交通路

    江戸時代に利根川の東遷(1654年完成)により霞ヶ浦と江戸を結ぶ航路が開かれると、東北地方から江戸に向けた大量輸送の経路となる。那珂湊内海江戸まわりと呼ばれるコースは航海の危険は少なかったものの、途中積み替えの手間がかかることから、次第に房総半島沖を通るコース等に移り変わっていく。

    霞ヶ浦舟運物語

    蒸気船の就航

    1877(明治10)年、深川扇橋・霞ヶ浦高浜(石岡市)河岸間に蒸気船が就航し、1883(明治16)年には両国・鉾田間(北浦)にも航路が開設された。明治後期には佐原~鉾田、佐原~土浦、銚子~高浜、銚子~土浦、土浦~鹿島、土浦~江戸崎などの定期航路が開かれている。

    蒸気船の就航

    水上交通から陸上交通へ

    1896(明治29)年、田端・土浦間を2時間40分で結ぶ常磐線が開通。1898(明治31)年には本所・佐原間に総武線が開通し、霞ヶ浦周辺から東京への所要時間は一挙に短縮される。また、バスやトラックなどの陸上交通も発達し、長距離航路は廃止され、その後水上交通はしだいに衰えていくことになる。

    観光として舟運復活

    昭和40年代には一旦廃れた帆引き漁法だが、現在では観光帆引き船として復活。他にも遊覧船やサイクルーズ※として霞ヶ浦舟運は役割を変え活躍している。

    霞ヶ浦の治水対策


    霞ヶ浦の過去の水害

    霞ヶ浦周辺はしばしば洪水に悩まされており、1938(昭和13)年、1941(昭和16)年の洪水は湖岸周辺に大きな被害を与えた。また1991(平成3)年には戦後最高水位を記録し、侵食、内水被害が発生した。
     
    昭和13年 浸水被害状況(土浦市)
    昭和13年 浸水被害状況(土浦市)
    平成3年 前川で内水被害状況(潮来市)
    平成3年 前川で内水被害状況(潮来市)

    治水・利水の両方の目的をもった霞ヶ浦開発事業

    霞ヶ浦の沿岸地域は、塩害により、農作物などに大きな被害を受けてきた。一方で、首都圏の水需要の増大も予想されたため、1968(昭和43)年から治水・利水の両方の目的をもった霞ヶ浦開発事業が進められ、常陸利根川の改修、湖岸堤建設、常陸川水門・閘門部改修等が行われた。

    霞ヶ浦容量配分図
     

    霞ヶ浦の治水対策

    過去の洪水による浸水や高波浪による侵食被害から、堤防整備と波浪対策を進めている。

    霞ヶ浦の治水対策

    もしものときは、早め早めの行動を!

    水位と行政から発行される情報と主な備え
    霞ヶ浦の基準水位

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