荒川を知ろう
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荒川上流部改修100年
荒川紀行
決壊の跡碑
熊谷市久下付近の荒川左岸では、明治43年、また昭和22年のカスリーン台風等で過去に大規模な水害が起きたことがあります。また、荒川右岸でも過去水害が起きています。
先人達が残した碑を訪ねてみたいと思います。決壊の跡碑
昭和22年9月のカスリーン台風による洪水のため、河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。
流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。
下の画像は洪水から約一ヶ月後の昭和22年10月に米軍が空撮したものですが、破堤している様子がわかります。吉見堤碑・万吉堤碑
荒川右岸側にも万吉堤碑、吉見堤碑といった過去の災害を伝える碑があります。
吉見堤碑の地点では、明治43年8月10日に決壊。その長さは184間4分(約340m)とあり、修堤する長さ465間5分(約840m)、金額3万5335円(現在の貨幣価値で約4400万円)、人夫5万4千人あまりと、被害の甚大さがうかがえます。
万吉堤碑の地点では、454間(約820m)破堤し、修堤する長さ580間(約1,050m)、金額2万6840円(現在の貨幣価値で約3,356万円)とあります。
明治43年の災害は古今ないレベルの災害だと碑の中にもかかれており、この災害がきっかけで荒川の近代改修が始まりました。
※貨幣価値の換算は「企業物価戦前基準指数」の明治43年と平成26年で比較旧熊谷堤
万平公園にある熊谷堤の碑。そこから2km程度下流にいった久下権八公園にも熊谷堤の碑があります。
万平公園には一部の堤が残っており名勝と入っていますが、荒川近代改修に伴い、新しい熊谷堤がつくられ、名勝指定は解除されています。
久下権八公園の碑は時間の経過で碑文が読みづらくなっていますが、伊藤博文篆額(てんがく:石碑の上部に篆書で書かれた題字)とありますので「熊谷堤」の題字を書かれたようです。
要約すると、旧熊谷堤が元治元年(1854年)に久下と石原の間で決壊。明治8年(1875年)3月に起工し、明治12年(1879年)3月に完成。長さ6万3千6百余尺、高さ2丈とあります。久下の渡し、冠水橋
右の写真は久下の渡し・冠水橋です。昔は橋がなく渡しといって舟で対岸と行き来してました。昭和30年に冠水橋という文字通り洪水時は水がかぶってしまう橋が架けられました。
碑の横にある看板によると、幅2.7m、長さ282.4m、制限重量3t、橋脚44本あったようです。
平成15年6月に新しい久下橋が下流側に完成し、冠水橋は惜しまれつつ撤去されました。