荒川を知ろう
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荒川上流部改修100年
改修100周年コラム
目次
⇒ 水との戦いと人々の知恵 ~川に囲まれた川島町~
川島町教育委員会委員 菊池さん
⇒ 坂戸市水防団の活動 ~昭和57年の洪水~
元坂戸市水防団員 インタビュー
⇒ 荒川災害時の気象 ~気象予報士から見た災害時の気象~
日本気象予報士会 下山さん
水との戦いと人々の知恵 ~川に囲まれた川島町~
荒川の中流域に位置する川島町は、東に荒川、北に市野川、南は入間川に、そして西は越辺川に接しており、町名のとおり川に囲まれた島という地域です。古来より豊富な水による恵みを受けつつも、度重なる水害に見舞われてきた地域でもあります。
川島町教育委員会委員の菊池さんに川島町の水との戦いの歴史をお聞きしました。<菊池さん>
■川島町の水害への備え
川島町は四方を川に囲まれ平坦な土地で、昔から水害の多い地域でした。今では川沿いに連続堤防が築かれていますが、江戸時代にはそのようなものはありませんから、様々な水に対する備えを領主や地域、個人で行ってきました。
川島地域では川を堤防で囲うのではなく、地域を堤で囲って守っていました。その堤を「川島領大囲堤」といいます。埼玉県の「荒川 人文3」によると、1671年から1947年の間でその大囲堤も破堤を繰り返しており、延べ108箇所も切れています。
■水災予備船
明治43年(1910年)の洪水では大被害を受け、その後も大正2年(1913年)、昭和16年(1941年)、昭和22年(1947年)と堤防が切れています。特に、明治43年の洪水では川島町内各地で破堤し壊滅的な被害を受け、その惨状に明治天皇からの下賜見舞金があり、その見舞金で洪水時の救助・運搬用の水災予備船を造った地域もありました。記録では伊草村4艘、三保谷村12艘、八ツ保村8艘が建造され、八ツ保地区の下八ツ林薬師堂に現存しています。
元々、川沿いには舟運で栄えた地域もあり、船大工もおりその他に村や個人で準備している方もいました。
川島町の歴史を知ってもらい、防災意識をさらに高めるため今後は川船の管理と展示を進めていきたいと思い町内にある船の数を調べているところです。
■水塚
水塚(みづか)というものがあります。これは、一般的には敷地内の一部を土盛しその上に蔵を建てたものになります。中は板張りの2階建てで梯子がかけてあり、普段は長持ち(※衣類・調度などを保存しておく長めの箱)に入れた衣類や米俵などの食料を置いて蔵として使い、洪水の時には家人が避難しました。
川島町が平成7年にまとめた資料によると、町内いたるところに水塚はあるのですが、特に三保谷地区50箇所、出丸地区で74箇所が確認されており、洪水の被害の多かったところに水塚が多く造られています。
次に、町内の水塚があるお宅に伺い、お話しを聞いてみたいと思います。
<川島町出丸地区在住 長沢さん>
江戸時代初期に熊谷市久下付近での瀬替え(※荒川の流を付け替える)により、和田吉野川が荒川の水を受けることになってからこの地域は洪水が増えてきました。
■明治43年の災害
祖父から聞いた話ですが、明治40年、43年、この2つの水害が大きかったそうです。明治43年の水害で浸水した高さを家の梁にしるしをつけてあったんですが、家の建替えでなくなってしまいました。だいたい2mくらいの高さでした。
母屋の裏に水塚がありますが、当時はその水塚に建てた蔵に馬を避難させていました。この蔵は嘉永5年(1852年)につくったものです。その馬の腹の位置まで水が来て、避難していた家の者は蔵の2階から手を伸ばして手を洗ったと聞いてます。
この洪水では、出丸地区はほとんどが水没しました。
■昭和22年カスリーン台風
カスリーン台風は実際に体験したんですが、このときにはあちこちの堤防が切れて庭まで水がきました。まわりの家もみんな床上まで水がきました。
その時にも川船を納屋から出して使用しました。船の長さは3間半(約6.3m)で今でも納屋に吊ってあります。昔の堤防の高さは今の堤防の下の段ぐらいでしたが、昭和22年以降は堤防がしっかりして床上浸水はなくなりました。
荒川と入間川の背割堤の工事も見たことがあります。トロッコで土砂を運び、機械で荒川を掘っていました。
上流にダムができて以降はだいぶ変わりました。
<猪鼻さん>
■明治43年の災害
この母屋は150年くらいたつもので、水塚は大正時代に建てました。先代が言うには、明治43年の水害時は家のひさしまで水がきたと聞いていますので、2mくらいの高さになります。
その後に母屋を動かさず、敷地自体を土台から6尺(約1.8m)上げて氾濫に備えるようにしました。それ以来家が浸水したことはないです。
昔は水が出ると周りの人々が大八車や牛をつれて避難してきました。敷地を周りより高くしたことにより、避難所の役割を果たすことになりました。家で寝てると避難してきた人が入ってきて驚いたこともあります。
■昭和22年カスリーン台風
カスリーン台風のときは家の周辺が浸水したため、川船を使いました。
長さ6間(約10.8m)幅6尺(約1.8m)で救助の他、物資や人の移動などでつかいました。ただ、あまりに大きくて保管するのが大変であり堤防もしっかりしてきたので、今は処分してしまいました。
今でこそ歴史的価値とか言われていますが、当時は、大きすぎて引き取り手がいませんでした。
<菊池さん>
■現代の水塚
今では河川改修、排水機場の整備などが進み、近年では大きな水害は発生していませんが、備えを怠らないよう防災意識をさらに高めたいと思います。
ちなみに、川島町庁舎は1階床レベルを周辺より2mかさ上げし、万が一の場合でも2階は浸水しない現代の水塚となっています。
最後に、明治43年の災害後、川島町の人々のために作られた川島郷歌の三番では「あふるる水を防ぐべく、築き固めし堤塘を心となして尽くさなむ 我が郷のため国のため」とうたわれていることを紹介します。川島町の水との戦いの歴史を象徴しているように思います。坂戸市水防団の活動 ~昭和57年の洪水~
元坂戸市水防団員 インタビュー
坂戸市は、越辺川、高麗川に接した水に恵まれた地域ですが、一方水防が重要な地域でもあります。
■昭和57年の洪水での活動
昭和57年の洪水時は一団員の立場で出動しました。当日は朝8時から土砂降りでした。水防団の総合大会当日だったので良く覚えています。午後2時頃、当時の団長より待機命令があり、大会会場からそのまま待機に入りました。
夕方の5時頃、越辺川の14km地点より少し手前の北浅羽で越流の連絡があり、水防団員約150名で現地に急行し水防工法を実施しました。現地ではすでに堤防より水があふれていたので、水の勢いを弱める木流し工法などは行わず、越流箇所200mに渡る土のう積みを行いました。普段の訓練時と違い、土のうに入れる土が水を含んでいるため非常に重かったのを覚えています。また、今と違い、照明は足元を照らす程度の弱いものだったため、真っ暗ですぐ横に水が流れている中での作業は、とても怖かったです。
その後、午後10時に解除命令が出たため、堤防沿いを下流に向かって車で移動し、八幡橋のところまでは行くことができました。ただ、当時、冠水橋であった八幡橋は通行止めになっており、横沼地区あたりの堤内地では1.2mくらいまで浸水被害がありました。その時、堤防上で停車していると堤防が揺れていました。河川堤防は基本的に土でできていますが、その土に水が浸透し、いわば液状化のようになります。それで水流の勢いにより揺れを感じたのです。この場所より下流である越辺川、小畔川、入間川の合流手前の落合橋あたりの洪水での被害が大きそうでした。
■昭和22年カスリーン台風での洪水の伝聞
昭和22年のカスリーン台風での洪水は、島田橋の下流で決壊し、付近は家ごと流されています。その他の地区でも1階の天井まで水がきました。人の避難だけでなく、刈り取っていた稲を船に乗せて財産も避難させていたと聞いています。
■流域の方々に気を付けてほしいこと
水防に携わった立場から言わせていただくと、もしもに備えておくということです。自治体が出しているハザードマップの確認、避難場所の確認、水や食料の用意はしておいたほうがいいです。
水防団も一生懸命努力していますが、「自分の身は自分で守る」これを意識してください。荒川災害時の気象 ~気象予報士から見た災害時の気象~
日本気象予報士会 下山さん
■荒川流域の気象
荒川中上流部にあたる埼玉県は関東平野の内陸に属し、沿岸部に比べて雨は少なくなっています。たとえば東京の年間降水量は平均1,500mm程度に対し、熊谷は1,200mm程度となっています。しかし荒川上流部の北側には秩父山地がそびえ、上昇流が発生し雨雲ができやすく降水量はやや多くなります。■明治43年の災害
停滞していた梅雨前線に向かって2つの台風が襲来し大雨を降らせました。「埼玉県の気象百年」によると、1~2日は前線、3~6日は低気圧、7日~11日は房総沖を通過した台風、13~16日は沼津付近から埼玉県西部を通過した台風の影響とあり、1日から16日の降水量は秩父で936mm、名栗(現飯能市)では1,216mmという豪雨でした。
天気図は1910年の気象要覧等から友人が作成したもので、8月14日6時時点のものになります。2つの台風が通過していることがわかります。
この大雨により荒川では10日18時30分に左岸の大麻生村(現熊谷市)で破堤、右岸では10日夜半から11日朝にかけて吉岡・吉見(現熊谷市)で破堤し、荒川、利根川、多摩川などの堤防約7,000箇所が決壊しました。
■カスリーン台風
昭和22年(1947年)9月に襲来したカスリーン台風は、関東の西部及び北部山沿いに停滞していた前線が活発化し、秩父の日最大降水量519.7mmと現在でも秩父観測史上最大となる数値を記録しています。
台風の勢力は、特に強かったわけではありませんがいわゆる雨台風で、ゆっくりした速度で進み、大量の水蒸気を送り込んだため大雨となりました。
戦後の混乱期で、荒廃した地域に降った雨が一挙に川に流れ込み、15日には熊谷市久下で破堤しました。
カスリーン台風に限らず昭和30年代までの台風の被害は、大洪水による死者の多いのが特徴の一つでもありました。
■平成11年8月洪水
入間川、越辺川、小畔川の合流部で浸水被害が発生したこのときは、上2つの状況とは異なります。日本近海の太平洋の海面水温が平年より高かったこともあり、日本の南海上の近いところで熱帯低気圧が発生し、関東南岸に進みました。
熱帯低気圧(最大風速17.2m未満)というのは、風が弱いだけで、雨に関しては台風と何ら変わらないエネルギーを持っています。
このとき、神奈川の玄倉川では水難事故が起きており、この事故がきっかけになり、2000年6月以降、台風や熱帯低気圧の強さを表す表現として「弱い」「小型」「ごく小さい」などの表現を廃止しました。
■近年の気象
気象庁の予報官をしていましたが、昔は降水量に対しては100mmで注意報クラス、200mmで警報クラス、400mmで大きな災害の起きる目安としてきました。
しかし、近年は降水量400mm超えることは多々あり、激しい現象が多くなっています。
また、降るときは大雨となり、降らないときは全く降らない、平均値をとると平年並み、というように極端な現象になっています。
台風はもとより自然のエネルギーは強大です。自然のエネルギーを侮ることなく、常に謙虚に自然と向き合っていただきたいと思います。