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荒川の歴史

治水の歴史

治水は人と川との知恵比べ、と言ったら語弊があるかも知れませんが、大自然のエネルギーそのままに流れを変えてきた河川を人間社会の都合に合わせておとなしくさせるのが、治水の役目です。しかしその一方で、記憶力の良い荒川は太古の自由な流れを記憶して忘れません。荒川の恵みを受けながら、荒川の氾濫域に暮らしの場を広げ、発展してきた人間社会の陰には、過去から今日に至るまで連綿と続けられてきた治水の姿があります。

江戸時代以前 江戸時代以前の河川改修は小規模で "荒川の流れ" そのものに
手をつけることはなかった
江戸時代 荒川は熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川・市野川・入間川筋を
本流にする荒川の西遷を実施
明治時代以降 明治政府は、これまでの各領地の利害に基づいて個別に行われていた
治水事業を改め、重要な河川は国費で直轄事業を行う方針をうちたてる

洪水の記録

洪水とは、おおみず、河川の増水です。荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきました。古くは「三大実録」に、天安2年(858)秋、武蔵国水勞という記述があり、鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」には、建仁元年(1201)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが記されています。
また、建保2〜3年(1214〜15)頃、鴨長明が編纂したとされる「発心集」には、武州入間河原の事、として、堤の中に畑や家屋があったこと、洪水により堤が切れ、天井まで水が溢れ、やがてゆるゆると家が押し流されていく様子が残されています。
ほかにも、慶長元年(1596)には100年に1度といわれる大洪水があったこと、慶長19年(1614)諸国出水、元和3年(1617)入間川洪水、元禄元年(1688)荒川洪水など、文字に残された水害は数知れません。それらはまるで「荒ぶる川」を決して侮ってはいけないことを、後世の私たちに伝えているかのようです。

寛保2年(1742年) 荒川、利根川が氾濫し、関東一円が浸水
安政6年(1859年) 荒川筋の各所で堤が切れ、また、市ノ川筋、入間川筋も破堤
明治43年(1910年) 明治以降荒川最大の出水
利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、
東京下町にも甚大な被害
昭和22年(1947年) 熊谷市久下地先において100mにわたり堤防が決壊
埼玉県内の全壊・流失家屋は1,121戸、床上浸水家屋は44,855戸
昭和49年(1974年) 当事務所管内では護岸や堤防法面の破損など40ヶ所が被災
昭和57年(1982年) 新河岸川では被害総額211億円にも及ぶ甚大な被害
平成11年(1999年) 熊谷水位観測所、治水橋水位観測所では
観測開始以来、過去最高となる水位を観測
平成19年(2007年) 三峰雨量観測所にて総雨量573mmを記録
熊谷水位観測所では観測開始以来の最高水位を記録
国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所
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