荒川を知ろう
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荒川の歴史
明治43年
明治43年の洪水
「8月1日以来晴雨定まらず、連日降雨で8日に至り漸次烈しくなり、10日には暴風雨となり、荒川筋は未曾有の大洪水となり…」と残されています。
山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。
明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。
記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。
埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです。
「明治43年(しじゅうさんねん)の大洪水」として今も歴史に残る洪水は、人の暮らしが荒川の氾濫域にあることを物語っています。
ここがポイント!
かつてない大洪水に、明治政府は「臨時治水調査会」を設け、抜本的な治水計画にのり出しました。
荒川は、国が直轄事業として改修すべき河川に採択され、「荒川改修計画」が立てられました。荒川下流部では、岩淵水門から下流に、隅田川(当時の荒川)と分派する約21kmの放水路を新たに開削することが決定し、大正2年から昭和5年まで17年の歳月をかけて工事が行われました。
荒川上流部の改修工事は、大正9年に工事を開始し、37年の歳月をかけて昭和29年に完工を迎えました。荒川上流部の治水を考える際のポイントとなる、横堤や広大な河川敷は、この時の改修工事によって生まれたものです。