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Q5 朝鮮通信使一行、琉球使節一行、また象の道中のことなどを知りたい。
(横浜市旭区  72歳  男性)
A5 朝鮮通信使の通行については、「東海道と人物」の「Q4:江戸時代に東海道を通ったという朝鮮通信使について教えてください。」をご覧ください。
また象の道中については、「旅について」の「Q5:東海道を象が歩いたって、本当ですか?」をご覧ください。
そこで、ここでは琉球使節一行の通行についてお答えします。
江戸幕府は、鹿児島藩を介し、当時の琉球における琉球国王の権力を認めていましたが、これに対し琉球は、琉球国王の即位を感謝するため、鹿児島藩の命令・監督のもとに恩謝使といわれる使節を江戸に派遣しました。また、徳川将軍の代替わりごとに、将軍の聾職を祝して慶賀使を派遣しました。
これらの外交使節団の派遣は「江戸上り」ともいわれ、寛永11年(1634)から嘉永3年(1850)までの間に計18回に及んでいます。
琉球王子を正使とする一行の人数は、最も多い時で170人くらいでした。琉球を6月ごろ出発し、鹿児島の琉球館に入り、8月から9月にかけて鹿児島を出発、長崎、平戸、下関を経て、瀬戸内海を通り、大坂に入ります。江戸に到着するのは11月か12月ごろで、約1カ月滞在し、将軍に謁見、献上物を奉呈します。
鹿児島藩は、江戸上りの使節に大和風を禁じ、服装や言葉、さらには立居振舞まで異国風を強制したといわれています。


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