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荒川を知ろう

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    寛保2年

    寛保2年(1742)の洪水

    寛保2年(1742)の洪水

    当時の水位を「水」の字で表し、その下方に「寛保2年壬戌8月10日、亥刻大川水印迄、田方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻んでいます。

    数多くの古文書が残され、寛保2年の洪水がいかに大規模であったかを物語っています。よく知られる「樋口村寛保2年洪水位磨崖標」(長瀞町野上下郷)は、この時の水位を「水」の字で岩壁に示したもの。現在の平水面から20mの高さにあります。この洪水では荒川,利根川が氾濫し、関東一円が浸水しました。浅草で水深7尺(約2.1m)、亀戸で12、13尺(約3.7m)、死者3,900余人、救助された者186,000人と伝えられています。

    文字に残された水害の記録

    ●熊谷市「松崎家文書」より
    7月27日より6日6晩降り続き、荒川通は古今まれなる大出水で、(石原村の)水押反別153町歩、土地乱入67町歩、流家60軒、潰家50軒、溺死7人、落馬11匹。

    ●熊谷市「福田家文書」より
    8日朔日夜、荒川通が出水し、石原村堤、石上寺裏堤、久山寺前堤4ヶ所が決潰した。下石原村農家50軒余押流し、熊谷寺門前南側を押流して、上之横町(鎌倉町)石上寺裏まで押崩し、溺死者もあった。熊谷町南側は浸水床上2尺5寸、新宿(筑波町)は久山寺前から箱田村の方へ押流したが、町の北側は水が這入らなかった。にもかかわらず南側に浸水したのである。持田村へは朔日夜九つから荒川の水が押寄せ、住宅は床下まで1尺7寸ほどの浸水だったが、翌2日朝六つには増水が止まった。すると六つ半から利根川が出水して床下2尺5寸に達した。…

    ●入間郡久下戸村(現川越市)名主・五平次による「大水記」より
    三十人、五十人と死体が連なって流れてくる、子供を抱いたり人や馬が昼も夜もひっきり無しに流れてくる。屋根の上には、助けを待つ人がおり、小舟を出して、村中を回り被災者を大きな家や寺に避難させた。

    ●「川島町郷土史」より
    荒川通松永村、加胡村、谷中村、出丸下郷、市ノ川小見野村地内堤各所で決損し、民家流出し、人畜の死傷、田畑立毛の損害等甚大にして其の惨状筆舌に尽くし難し。

    ●「行田市史」より
    荒川の増水60尺、堤防の決潰96ヶ所。

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