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荒川を知ろう

  • 荒川の歴史

    明治時代以降

    近代国家を目指す明治政府は、これまでの各領地の利害に基づいて個別に行われていた治水事業を改め、重要な河川は国費で直轄事業を行う方針をうちたてました。
    明治40、43年と続いた大洪水を契機に、明治政府は「臨時治水調査会」を設け、抜本的な治水計画にのり出します。荒川の近代的な治水の基礎を築いた「荒川改修計画」は荒川を上流部と下流部に分け、荒川下流部では、岩淵水門から下流に、隅田川(当時の荒川)と分派する約21kmの放水路を新たに開削することが決定し、大正2年から昭和5年まで17年の歳月をかけて荒川放水路の開削が行われました。
    荒川上流部は大正9年に工事を開始し、37年の歳月をかけて昭和29年に完工しました。荒川の治水を考える際のポイントとなる、横堤や広大な河川敷は、この時の改修工事で生まれたものです。

    荒川上流改修工事平面図

    荒川上流改修工事の施工区間は、赤羽鉄橋から大里郡武川村(現深谷市)に至る62.3km、入間川筋の比企郡伊草村(現川島町)地先の落合橋から荒川本川合流部に至る5.9km、新河岸川筋の北足立郡新倉村(現和光市)から岩淵水門に至る11.1kmでした。
    関東大震災や第二次世界大戦などの幾多の試練を乗り越えて築かれた横堤や背割堤、そして現在、公園やグラウンドといった憩いの空間が広がる広大な河川敷は、荒川の治水を考える際の大きな特徴になっています。

    横堤

    御成橋付近(吉見町・鴻巣市) 昭和57年9月撮影
    横堤の模式図

    川の中にせり出しているのが「横堤」です。
    吉見町糠田橋付近から戸田市笹目橋付近の間の川幅を広くとり(最大で2.5km)、26本の横堤を設けることで遊水効果を高め、下流へ流れる洪水を調節します。現在では、この遊水効果をさらに高める人工調節池が造られています。

    背割堤

    荒川・入間川合流部(さいたま市)

    川の合流部、2つの川に挟まれているのが「背割堤」です。
    越辺川・小畔川・入間川などの合流部に設けることで、川の水の合流をスムーズにして水害を防ぎます。

    広大な河川敷

    吉見町明秋付近

    幅2.5kmの広大な河川敷は、横堤とともに遊水機能を果たします。

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