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Q8 箱根八里でなぜ尾根を通っていた道からわざわざ足場の悪い谷沿いの道を通るようになったのかという点が不思議である。尾根づたいの方が通りやすかったはずである。
(大和市  20歳  男性)
A8 江戸時代以前(中世)には、箱根山を越える場合、現在の箱根八里ではなく、「湯坂路(ゆさかじ)」と呼ばれる尾根づたいの道が使われていました。このルートは、京から下る場合、箱根峠を越え、芦ノ湖を経て、鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根と伝って湯本へ下る山越えのコースです。鎌倉時代に阿仏尼が著した『十六夜日記(いざよいにっき)』には、この道のことが「いとさかしき(大変険しい)山をくだる、人の足もとまりがたし、湯坂とぞいうなる」と記されています。この湯坂路こそ、鎌倉将軍の二所詣でをはじめ、中世期において多数の旅人が通過した箱根山越えの主要幹線道路でした。
ところが江戸時代に入ると、いわゆる「箱根八里」と呼ばれるルートに大きく変更されました。この道は須雲川に沿った谷沿いの道です。
ご指摘のように、山越えの道は、通行の利便性や道そのものの維持を考えるとき、日当たりが良く、展望の利く尾根筋に位置することが望ましいと言えます。
しかし、箱根の場合、すでに好条件を備えた幹線道路があるにもかかわらず、あえて条件の悪い谷沿いのルートへと変更されています。
このルート変更の時期、意図など確証はありませんが、少なくとも街道の一里塚・並木が整備される慶長9年(1604)には変更されていたと思われ、その意図についても、1つには小田原〜三島間の最短ルートを結んだということが考えられます。
さらに推量を加えるならば、箱根関所の設置をもかんがみ、江戸防衛の重要地点として箱根山を位置づけていた幕府の防衛戦略的な意図に基づいたルート変更、とも受け取ることができるのではないでしょうか。


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