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参勤交代ってなんのこと? |
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江戸時代、日本全国には約260の大名がそれぞれの藩を治めていました。各藩は領国の中心地に城と城下町を構え、藩主や家臣はそこに居住して領国を支配していました。
一方、江戸には各藩の藩邸(大名屋敷)が置かれ、藩主の正室などは人質の意味を込めて、江戸の藩邸で生活することとなっていました。
このため多くの大名は江戸と国元の二重生活を強いられ、原則として江戸に1年間住む(参勤)と、次の1年は国元に帰って住んでいました(交代)。この制度を「参勤交代」といいます。
参勤交代は、3代将軍徳川家光が寛永12年(1635)に発布した「武家諸法度」に明文化されたものです。
しかし参勤交代を受け入れる交通上の体制づくりはこれよりも早い段階から行われていました。寛永3年(1626)の徳川秀忠・家光父子と、寛永11年(1634)の家光の上洛です。とくに家光の上洛は一説によると供奉者30万人という大規模なもので、東海道を中心とした街道がこのような大規模な通行に対応できるかどうかを見るための絶好の機会でもあったのです。
幕末に参勤交代の制度が廃止されるまで、この制度は大名に大きな負担となりましたが、これによって全国の主要な街道が次第に整備され、宿場が発展し、また文化と情報が広く行き渡りました。なかでも東海道は、東海、近畿、西日本の大名が参勤交代のために利用し、大名行列が最も頻繁に通った道でした。
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図版:『加賀藩大名行列図屏風』石川県立博物館蔵 |
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