小泉次大夫吉次は、旧姓を植松といい、先祖代々水利土木技術と伝統を誇る家に生まれました。天正18(1590)年、家康の家臣として江戸に入った次大夫は、武蔵国橘樹郡小杉村(現・川崎市中原区)に居を構え、多摩川の治水奉行となります。
当時の多摩川は大洪水の爪あと激しく、沿川の村は荒廃し、水田開発も遅れ、人々は苦しい生活を送っていました。それを見た次大夫は、家康に用水掘りの開削と新田開発を進言します。
願いは聞き届けられ、慶長2(1597)年、次大夫は、多摩川下流左岸の世田谷・六郷領に六郷用水を、右岸の稲毛・川崎領に二ケ領用水を開削するための測量を開始、15年をかけて工事を進めました。中でも二ケ領用水は、全長約32km、稲毛領・川崎領合わせて60村の耕地1,876町歩を潤す一大用水路であり、多摩川水利史上初の農業水路でした。現在でも貴重な親水スポットとして、健在です。
|
多摩川中下流部の新田開発を進め、府中・押立に水害防備林として竹林を栽培し、玉川上水両岸に咲く有名な「小金井桜」を植えた川崎平右衛門定孝は、元禄7(1694)年、北多摩郡多摩村(現・府中市)の名主の子として生まれました。
彼が新田世話役を命ぜられたのは30代、享保年間(1716〜1735)のころ。当時無堤部だった多摩川中下流の村々の水防を強化しつつ、新田開発に実績をあげた彼は、のちに譜請奉行として押立の堤防改修工事、中流部左岸の両岸20余里に及ぶ公領、私領の堤防や樋門の改修工事にたずさわりました。
のちに有名な木曽川改修工事(宝暦治水)も担当した平右衛門は、田中丘隅同様、多摩川における治水工事の豊富な経験を他の河川の治水事業で活かした人でもあります。
晩年は島根県の石見銀山奉行を兼ねましたが、明和4(1767)年、73歳で亡くなりました。
|