荒川の概要と歴史
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荒川放水路の変遷
3.都市復興と荒川放水路
完成から現在までの出来事です。
カスリーン台風の来襲
昭和初期、荒川放水路では10年間に3度も計画高水流量を上回る大きな洪水が発生しました。なかでも、昭和22 年(1947) のカスリーン台風は、荒川のみならず東日本全域に大きな爪あとを残しました。
都市化の進展と地盤沈下
荒川放水路周辺は水運に恵まれ、東京の工業の中心として発展しましたが、工場の地下水揚水による地盤沈下が発生しました。太平洋戦争中は沈静化したものの、戦後の産業活動再開にともなって、地盤沈下は再び活発化しました。地盤沈下により、堤防の高さが不足することに加えて、堤内地の地盤が低くなって洪水時の氾濫被害が拡大することが懸念されました。
放水路開削後の河川改修事業
以上のような状況を受け、昭和26年(1951) に荒川放水路の改修工事の告示が行われ、低水路拡幅等の工事が進められました。さらにその後、都心部を守る荒川放水路の重要度を考慮し、昭和48年(1973)には、想定する洪水流量が大幅に見直されました。
高潮対策事業
地盤沈下によって生じたゼロメートル地帯は、高潮によって大きな被害が発生する可能性がありました。伊勢湾台風の高潮が甚大な被害をもたらしたことを受け、全国各地で高潮対策事業に着手されました。東京湾でも高潮に対するゼロメートル地帯のリスクを考慮し、東京湾高潮対策計画が策定され、荒川放水路でも高潮堤防の整備が進められました。
人口増加と深刻な水質汚濁の発生
荒川放水路通水後、隅田川上流の沿岸に工場が建ち始めたことから、川の汚濁は昭和初期頃から始まりました。太平洋戦争を挟んで昭和25年(1950)頃までは、隅田川などの都市内を流れる川もいったんはきれいになり、人が泳ぐこともできました。しかし、朝鮮戦争の特需景気などによって工業が隆盛となるにつれ、河川の汚濁も激しくなりました。
こうした事態を受けて取り組まれた、浚渫や浄化用水の導入、下水道整備の進展により、水質は徐々に改善していきました。