荒川の概要と歴史
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荒川放水路の変遷
1.求められた荒川放水路
荒川放水路が計画されるまでの経緯です。
江戸を守るための日本堤、隅田堤の成立
江戸時代にも市街地を守るために洪水対策が行われていました。
日本堤や隅田堤は、その成立過程が必ずしも明瞭に解き明かされてはいませんが、江戸市街地を洪水から守るために築堤されたといわれています。
その結果、江戸のまちはますます発展しましたが、一方で、その上流側では氾濫の頻度が高まりました。このため、農村では長い間、洪水と闘わなければなりませんでした。明治維新政府による帝都建設と工場立地
江戸時代より、農村地帯としての発展を遂げてきた現在の隅田川周辺も、明治に入ると大日本帝国の都、すなわち帝都の一角としての発展を遂げていきます。
帝都建設の過程では人口増加とともに、市街地拡大が起こりました。その要因は、第1次世界大戦による資本主義の高度化による工場労働者の大量の流入と、これらの労働者が公共交通網の発達にともなって主として郊外部へと居住地を広げていったことにあると考えられています。
荒川下流部(現在の隅田川)の土地利用も徐々に変化し、多くの工場が立地していきました。頻発した洪水
荒川(現在の隅田川)沿川では、江戸時代に頻繁に洪水が発生していましたが、明治時代になっても洪水が頻発しました。明治元年(1868)~明治43年(1910)の間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水は、10回以上発生しています。その中でも、特に、明治43年の洪水は甚大な被害をもたらしました。
東京では、それまで農地であった土地利用が工場や住宅地に変化したことによって、洪水の被害が深刻化していきました。放水路建設の背景
明治43年の洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。
荒川放水路のルート候補は、主なもので4つありましたが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用されました。
○上流部
広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカット
○中流部
千住町の北を迂回する形で隅田川から離れ、綾瀬川から中川へ通じる流路に沿わせて中川に連絡
○下流部
中川横断後は中川沿岸の市街地を避け、やや東にふくらませて中川河口に導く