荒川の概要と歴史
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荒川放水路の変遷
2.荒川放水路の開削
計画の策定から荒川放水路完成までです。
荒川放水路計画
東京の下町を水害から守る抜本策として、荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手されました。荒川放水路の洪水の流量(計画流量)は、岩淵地点における明治40年洪水での推定流量に基づき、毎秒3,340m3を荒川放水路に流下させ、隅田川には堤防がなくても洪水が氾濫しない流量として毎秒830m3を流下させるものとしました。
工事の概要と開削の様子
荒川放水路開削は、工事費、工事規模、開削土量などすべてが大規模でした。掘削した土砂の総量は東京ドーム18 杯分に及びます。その大規模工事は、人力、機械、船を駆使して進められました。
放水路開削に伴った工事
放水路開削工事では、数多くの水門や閘門が建設されました。建設された水門や閘門の中には、現在の荒川を代表する構造物もあります。また、線路の付替えや橋梁架替え等、関連する各種の工事が発生しました。放水路の規模が大きかったことから、数多くの付帯工事が発生しました。
難航を極めた開削工事
荒川放水路の工事中には、風水害の発生によって工事の予定が遅れることも少なくありませんでした。また、大正12年(1923) には関東大震災が発生して工事に影響を与えました。
放水路に携わったエンジニア
荒川放水路の開削には、日本を代表する多くのエンジニアが関与しました。代表的エンジニアとしては、荒川放水路を計画した原田(はらだ)貞介(ていすけ)、工事を指揮した青山(あおやま)士(あきら) が挙げられます。青山士は、日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者であり、岩淵水門の設計・施工にも尽力しました。
1300世帯の協力により成立した放水路
荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なものでした。工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼりました。また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。
荒川放水路の完成
荒川放水路開削事業は、大正13年(1924)の岩淵水門完成によって上流から下流までが繋がり、通水が行われました。
荒川放水路通水後は、放水路が洪水抑制の効果を発揮したことが確認されています。下図は大正14 年(1925)8 月洪水時の放水路の水位と、隅田川の水位を比較したものです。岩淵水門地点の放水路の水位と隅田川の水位差が2.83mあったことが示されています。
この後、関連する工事が進められ、昭和5年(1930)に荒川放水路は完成しました。