あばれ多摩川発見紀行
多摩川豆知識
元祖 多摩川ウォーカー 大田南畝(蜀山人)
8代将軍吉宗から11代将軍家斉のころまでの、多摩川の姿を現代に伝えた大田南畝は、狂歌といういわば短歌のパロディで有名になった人です。
その人がなぜこのコーナーに? それは、当時の多摩川のようすを「調布日記」という紀行文に残した人だからです。
幕府の御徒(徒歩で行列の先導を務める職)の子として生まれた南畝は、父の跡を継ぐかたわら学問に没頭、新たな人材を発掘するための試験に合格し、のちに支配勘定(国郡の調査などをする職)の役に取り立てられました。
南畝60歳の時、幕府の命で約4ヵ月、多摩川の治水状況を見て歩き著したのが「調布日記」です。約76年間に21回もの大洪水に見舞われ、幼い子供や女たちまでもが復旧工事にかり出されているようすが描かれたこの日記は、多摩川の洪水の被害の大きさはもとより、当時の多摩川ぞいに生きる人々のようすをくわしく伝える貴重な資料となっています。
布田、等々力、宇奈根…。両岸に同じ名前
多摩川の両岸に、同じ名前の地名がいくつか見られます。布田、等々力、宇奈根、和泉、丸子、沼部、瀬田…。これは、大洪水によって流路を変えた多摩川が、村を分断したなごりです。
現在に近い流路になったのは、16世紀末に起こった大洪水。下流の大師河原付近と上流の登戸・宿河原付近が北に、丸子付近では南に大きく流れを変えました。
地名ひとつをとってみても、多摩川がどんなに「あばれ川」であったかわかるというものです。
地図
たび重なる洪水で流路が変わり、都県境が川のあっちとこっちにまたがっていたころの多摩川。
明治43年の洪水のあと、川が境となるように改められた
狛江水害その後
狛江水害の翌年、昭和50(1974)年、家を流された住民をはじめとする30世帯33人の原告が、国を相手取って損害賠償を請求し、東京地方裁判所に訴え出ました。これが約16年に及ぶ「多摩川水害訴訟」の始まりです。
裁判は4回にわたり、一審では住民が、二審では国が勝訴。これを不服として原告側が上告した上告審では二審の判決が破棄され、平成4(1992)年、原告側の勝訴が確定しました。
社会的な関心の強かったこの裁判の判決は、水害に対する河川管理の責任のあり方について再考をうながすものでした。それは「災害をいかに予見し、被害を少しでも回避するために、どのような手を打つのか」ということ。
これは多摩川治水の基本的な考え方となり、今なお生かされています。
浅川緊急改修
多摩川に合流する支川・浅川は、江戸時代から改修を重ね、また近年都市化もいちじるしい点が多摩川との共通点です。しかも急流、急勾配というの水害の起こりやすい川でもあります。平成11(1999)年8月、多摩川同様浅川でも大きな出水があり、百草床固などが被害にあいました。平成12(2000)年から行われている緊急改修では、この出水で被害を受けた箇所の修復工事と、浅川での戦後最大規模の洪水(昭和57年の洪水流量)に耐えられるよう、流下能力や強度が不足している箇所の工事を行っています。 高幡橋付近
高幡橋付近
投げ渡し橋
この羽村取水堰は「投げ渡し堰」というユニークな構造を持っています。
堰の構造は、堰柱と堰柱の間に立てられた木の支柱の前面に木の横ゲタを渡し、さらに横ゲタの前に簀の子、そだ、空俵を置き、堰の上流側に石をつめるといったもの。洪水が起こった時には、これらの自然の材でつくられた堰そのものを取り払って洪水を安全に流します。
投げ渡し橋構造図

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