あばれ多摩川発見紀行
1.田中丘隅のプロフィール

 寛文2(1662)年、今のあきる野市にあたる武蔵国多摩郡平沢村むさしのくにたまぐんひらさわむらに商人の子として誕生、名を喜六(きろく)といいました。22歳の時、東海道の宿場のひとつ・川崎宿で下本陣をつとめていた田中兵庫(たなかひょうご)の娘むことなり、45歳で田中家を相続。二代目田中兵庫を名乗ります。

 六郷の渡しの独占権を獲得するなど、財政難だった川崎宿をみごとに再建させた兵庫が、河川土木の勉強を始めたのはナント50歳を過ぎてから。江戸時代の有名な学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が8代将軍吉宗に認められ、「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として幕府の治水事業に携わるようになったのは61歳の時でした。この時、名を田中丘隅右衛門(たなかきゅうぐえもん)と改めます。ちなみに「川除御普請御用」とは、河川管理の責任者といった役どころ。

 丘隅は、享保9(1724)年から多摩川下流右岸の大丸用水と稲毛川崎二ケ領用水の改修、下流右岸の小杉の瀬替え(蛇行部のショートカット)、享保14(1729)年からは下流の連続堤の築堤を行い、「丘隅をして多摩川流という河川土木技術を起した」(「新多摩川誌」)と言われるほど、全国の河川土木技術に大きな影響を与えました。

 丘隅の最後の仕事となったのが現在の川崎区旭町あたりから大師河原までの多摩川下流右岸の堤防改修工事。この工事によって、多摩川の下流部の連続堤が完成したものと見られ、今も多摩川の下流部にえんえんと続く堤防の基礎がつくられました。

田中丘隅

丘隅の姿を彫った木像

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