休憩をとったら再び坂を上り始めよう。「於玉坂」というこの坂には、関所破りで処刑された少女「玉」の悲しい物語が伝わっている。 県道を横断すると「白水坂」。石畳の構造の一つ、縦の排水路を構成する肩石が整然と並んでいるさまが美しい。 坂は徐々に角度を増し、現存する石畳の中では一番の急角度を持つ「天ケ石坂」となる。 坂を上りきり、平坦な道を息が整う程度歩を進めると、箱根八里は馬でも越すが…の歌い出しでお馴染みの「箱根馬子唄」の大きな石碑が立つ広場に出る。 目の前に見える四つの頂を持つ山が箱根のシンボル二子山。 二子山 小田原方面から見ると2つのピークに見えるが、「表二子に裏四ツ子」という言葉があるように、ここからは向かって左「上二子」、右「下二子」にそれぞれ2つずつの頂が見える。この頂部をよく見ると、ごつごつとした岩肌が露頭していることに気が付く。この山は江戸時代から二子石という安山岩が産出する石切り場であった。箱根東坂の石畳にもこの二子石が敷かれている。 ここから先は「権現坂」、別名八町坂という下り坂となる。途中、十字路の右手に享保十六年(1731)の石柱が立つ。 「六道地蔵菩薩江之道」と刻まれたこの石柱は、この場所が鎌倉時代精進池畔に建立された石塔・石仏群を経て、同時代の官道である湯坂道へ向かう分岐点であることを示している。 「権現坂」を下りきり、国道一号を木製の横断歩道橋で渡ると、ケンペル・バーニー碑のある広場へと至る。この周辺を見渡すと、道の両側に杉並木が並び立っている。 |
Jお玉ヶ池 石畳 Lケンペル・バーニー碑 エンゲルベルト・ケンペルは元禄年間オランダ通信使の医師として来日したドイツ人で、彼の死後、弟子たちによってまとめられた『日本誌』は、全世界に日本の文化や諸相を広く紹介したものである。シリルモンタギュー・バーニーは、大正年間に芦ノ湖畔に別荘を構えたイギリス人貿易商で、彼は『日本誌』の序文を引用し、石碑に刻むことにより、「箱根の美しさを子孫の代まで守り伝えなければならない」という“自然保護の精神”を我々に訴えかけた。 この2人の意思を継いでいくことを目的に、昭和61年(1986)から箱根町の住民が中心となり、この場所で毎年11月23日に「ケンペル・バーニー祭」が開催されている。 |
江戸初期に植えられたといわれる杉が今でも旅人の心を癒してくれる。
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