『須雲川村明細帳』 ![]() 須雲川集落は寛永11年(1634)に成立した村落で、 年貢は納めず地子金として毎年銭四貫文(後に五貫文とな)のみを納める代わりに、街道関係の維持・管理に従事する「間の村」であった。 また享和元年(1801)、司馬芝叟によって書かれ、大坂で初演された人形浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』にちなんだ「初花の滝」「九十九新左衛門屋敷跡」「勝五郎・初花の墓」など伝承の地を持つところでもある。 E女転ばし坂 ![]() この坂にはその名が示すとおり、「馬でこの坂を上ろうとした女性が急坂のあまり落馬して死亡した」という言い伝えがあることが寛文十二年(一六七二)の『須雲川村明細帳』に記載されている。当時の坂は現在、須雲川橋向こうの樹木の中に隠れ、歩くことはできない。 G畑宿一里塚 ![]() (箱根町教育委員会提供) 畑宿の集落端にある、江戸から23里目の一里塚。京都方面へ向かい、左側の塚は一部削り取られていた。 平成10年度に行った保存整備事業によって、塚の内部構造も明らかになり、文献調査の検証から塚上の標識樹「右:樅(もみ)、左:槻(けやき)」とともに、復元整備が完成した。 H箱根旧街道資料館 ![]() 甘酒茶屋の隣にある芽葺きの農家風の建物。 江戸時代の旅の風俗などを紹介している。 |
正眼寺を出ると上り坂の道はS字カーブとなる。道端に仲睦まじく頬を寄せ合う双立道祖神前を過ぎると湯本茶屋の集落に至る。 集落に入るとすぐ右手に江戸から二十二里(約86km)目の一里塚跡を示す石碑が立っているが、本来の場所はさらに60mほど前方にあった。 湯本茶屋の集落を過ぎようとする辺りに、右斜めへ下る道が分岐している。ここを下るとすぐに石畳の道となり、江戸期の東海道ルートであることを知る。 この道は約300mほどで県道に合流してしまうが、箱根山に入り初めて石畳が見られるところである。 県道に出ると「観音坂」「葛原坂」などという名前が見つかるはずである。「葛原坂」を上りきり、箱根新道「須雲川IC」入り口信号を過ぎて二ノ戸橋を渡ると、須雲川集落となる。 集落の先に架かる須雲川橋手前左側に「女転ばし坂」と彫られた石柱がある。 県道と石畳の道を行き来しながら、「割石坂」「大沢坂」を上ると畑宿の集落に着く。宿という名を付すが、正確には畑宿村。 小田原宿から箱根峠までの東坂四里(約15.6km)のうちで最も賑わいを見せていた「間の村」である。名主の畑右衛門家は、茗荷屋と呼ばれ茶屋を営んでおり、浮世絵にも描かれるなど広くその名は伝わっていたようである。 集落はずれから再び石畳の道へと入るが、その入り口部分に復元整備が終わった江戸から二十三里(約90km)目の一里塚があり、当時の形状を今に伝えている。 一里塚から先が「西海子坂」。江戸時代の石畳道が現在の国道一号バイパスである箱根新道の上を渡るという奇妙な景観を持つ陸橋を渡り、100mほど進むと石畳に施された排水構造や石組などの工夫を見ることができる。 石畳 ![]() 西海子坂を過ぎると再び県道に合流するが、この辺りは現在「七曲り」と呼ばれ、きついカーブが続く。江戸時代の道は、ここをほぼ直登するルートとなっており、上り坂の苦しさに「どんぐりほどの涙こぼるる」といわれた「樫木坂」という難所となる。 「猿滑り坂」「追込坂」と続く急坂を上るとようやく平坦な場所へ出て、一息つくことができる。江戸時代からこの場所には甘酒小屋があった。 ![]() 江戸時代から続く街道の茶屋で、甘酒と餅が名物。 |
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