第4節

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K箱根神社
箱根神社
関東総鎮守として、源頼朝をはじめ小田原の北条氏、徳川氏と代々の武将に崇敬されてきた。







                    箱根離宮古写真

        箱根離宮
              (箱根町立郷土資料館提供)
明治19年(1886)に皇室の離宮が建てられた。
芦ノ湖に突き出た半島は現在、神奈川県立恩賜箱根公園となっており、離宮当時の西洋館が展望館として再建されている。
美しい庭園の入り口に「箱根八里の歌碑」が建つ。








N箱根関所跡
箱根関所跡
現在の御番所の建物は、昭和40年(1965)に大番所を模して建てられたもの。当時の位置とは道を挟んで反対側に建てられている。






 はやがて芦ノ湖畔沿いの道と合流する。ここに箱根神社の赤い大鳥居が立っているが、湖畔側の鳥居の足元に五十四基の石仏・石塔が肩を寄せ合うように佇んでいる。


            
M賽の河原
    賽の河原



 
「賽の河原」と呼ばれる霊地だが、幕末の浮世絵などを見ると、五軒の地蔵堂と、湖畔沿いの広範囲に石仏・石塔が描かれている。明治初期の廃仏棄釈運動やその後の観光開発などで、現在は小規模なものとなってしまった。

 「賽の河原」をあとに、湖畔に沿って国道一号を進むとまた杉並木が見えてくる。杉並木の入り口近くに二十四里(約94km)目の葭原久保の一里塚跡を示す石碑がある。

 杉並木を通り抜けると、広い駐車場を手前にすえた小高い丘が見える。明治十九年(1886)に皇室の
箱根離宮が建てられたところで、現在は神奈川県立恩賜箱根公園となって、近年、丘の上に離宮当時の西洋館を模した休憩所が建てられた。

 離宮を過ぎ、
箱根関所から箱根宿へと歩を進める。宿を抜けたところに十二基の石仏・石塔が集まっている。この辺りから道は再び石畳となる。「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」「挟石坂」と続き、国道一号に合流するとほどなく神奈川・静岡の県境、江戸時代は相模・伊豆の国境であった箱根峠へと至る。




                Q芦川石仏・石塔群
芦川石仏・石塔群
石仏・石搭の大半は巡礼塔で、箱根宿の宿民が巡礼成就の記念として建立したものであることが銘記されている。





                  箱根町の歩みメモ



 明治維新を迎えると、現在の行政区画でいう箱根町内のほとんどの地域が、小田原藩小田原県足柄県神奈川県という行政管轄の変遷をたどることとなるが、箱根宿は少し異なった道筋を歩むこととなった。

 というのも、宿の成立事情にその要因がある。つまり、宿を構成する三島町と芦川町は、代官が管轄する天領であり、維新後も江川太郎左衛門英竜県知事が所管する韮山県に編入された。

 そして、同所が明治四年(1871)十一月足柄県へ移行され、小田原町と統一されるにおよび、箱根宿成立当初からの領主が相違するという支配形態も完全にその姿を消した。

 明治九年(1876)、箱根宿一円は足柄県の廃止とともに神奈川県となり、同十一年(1878)、足柄下郡箱根駅となった。

 同十七年(1884)には元箱根村・芦之湯村と協議のうえ、「箱根駅外二か村」連合戸長制を敷き、町村制の施行された明治二十二年(1889)から昭和二十九年(1954)までは、「箱根駅外二か村組合」を形成して行政に当たっている。

 そして同年一月、名称を「箱根町」と変更、さらに昭和三十一年(1956)、町村合併により現在の箱根町へと変遷してきている。

 ところで、明治五年(1872)に伝馬制度が廃止されると、箱根宿も宿場としての機能を失うこととなった。同時に明治初期の箱根は温泉場を中心とした、国際観光地としてスタートを切った。

 したがって、新道をはじめとする全ての開発は、箱根七湯および七湯道方面に集中し、江戸時代の官道であった東海道箱根八里やその沿道、さらに箱根宿といった地域は時代の波から取り残されることになり、しばらくの間衰退した状態が続くことになる。

 この地域が再び脚光を浴びるきっかけとなったのが明治十九年(1886)の箱根離宮の竣工である。離宮の出現は、この地域が避暑・保養にふさわしい場所であるということを広く宣伝することとなり、外国人をはじめとした多くの人々が別荘を建設するようになった。

 また明治三十七年(1904)に、七湯道経由の新道(人力車道)が芦ノ湖畔まで敷設されるにおよび、旧箱根宿は風光明媚な避暑・保養地として新たなスタイルを確立し、現在に至っている。



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