第1節

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 王川(さんのうがわ)を渡り国道一号を西へ進むと、北側に小さな公園ある。ここが江戸口見付(山王口)で、ここからが小田原宿(旧新宿町)である。現在の町名は浜町で国道一号の最も交通量の多い商店街でもある。

 さらに西へ行くと新宿の交差点にぶつかる。国道一号を横断し左へ折れ、海岸方面に向かって「けあげ坂」といわれる緩やかな道を二百メートルほど進むと、東海道に出る。

 街道をはさんで両脇に、昔ながらの重厚な表構えの木造建ての老舗が並ぶ。


 東海道をさらに西へ進むと、宿の中心部に至る。万町・高梨町・宮前町・本町・中宿町・欄干橋町と旧町名をたどる。

 この辺りには、本陣・脇本陣・旅籠屋が軒を連ね、店頭には客引きが旅人を待ちうけていたのである。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の小田原宿風景は、この辺りを描写したのだろう。

 前町には、清水金左衛門本陣跡がある。本陣跡は現在の古清水旅館に隣接した小公園の中にあり、「明治天皇小田原行在所跡」の碑が立っている。




蒲鉾の老舗が並ぶかまぼこ通り
かまぼこ通り

蒲鉾は小田原が誇る水産加工品で、歯ごたえのある美味な食品で全国的に有名である。蒲鉾製造の起源は諸説あって、後北条時代と伝えられているが史料的には乏しい。
江戸時代後期、弘化3年(1846)に富士山麓の須走村(現静岡県小山町)で、小田原藩主一行が蒲鉾を賞味したという記録がある。また、安政7年(1860)に足柄上郡雨坪村(現南足柄市)の矢野七兵衛が名主に就任した折、祝膳に蒲鉾・竹輪・つみいれが使用されたという記録からみて、おそらく江戸後期・幕末から明治にかけて蒲鉾は小田原の地場産業として製造加工されていったと考えられる。




江戸口見付@
江戸口見付
山王口標識



















            C 清水本陣跡
清水本陣跡

清水本陣は、天保期には間口十八間、屋敷面積四百坪、建坪二百四十二坪の大本陣で、尾張徳川家六十一万石をはじめ、島津(薩摩)、細川(肥後)、浅野(安芸)、井伊(近江)、池田(備前)、藤堂(伊勢)、山内(土佐)の諸大名が宿泊した。本陣跡は現在の古清水旅館に隣接した小公園の中にあった。













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