事業概要
-
治水の沿革
治水の沿革
近世以前の利根川は、関東平野の中央部を南流し荒川を合わせて現在の隅田川筋から東京湾に注いでいました。その後、徳川家康の江戸入府を契機に江戸時代の初期約60年間において数次にわたる付替え工事が行われ、太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は「利根川の東遷」と言われ、これにより現在の利根川の骨格が形成されました。
利根川の治水事業は、明治33年利根川改修計画の策定以降、大規模な洪水の発生や流域の社会経済を踏まえて、治水計画の見直しを実施してきました。昭和22年9月の洪水は、カスリーン台風によるものであり、利根川流域において戦後最大の降雨となり、利根川本川右岸埼玉県北埼玉郡東村新川通地先(現加須市)において、堤防が最大で350メートルも決壊したのをはじめ、本川及び支川で合わせて24箇所、約5.9キロメートルの堤防が決壊する甚大な被害となりました。この大水害を受け、昭和24年に利根川改修改訂計画を決定しました。この計画は、昭和40年の新河川法施行に伴い策定した利根川水系工事実施基本計画に引き継がれました。
利根川流域の経済的、社会的発展にかんがみ、近年の出水状況から流域の出水特性を検討した結果、昭和55年に全面的に計画を改定し、基準地点八斗島において基本高水のピーク流量を毎秒22,000立方メートルとしました。
平成18年に策定した利根川水系河川整備基本方針(以下「河川整備基本方針」といいます。)において、基準地点八斗島における基本高水のピーク流量を毎秒22,000立方メートルとしました。