かわづくり
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伝統的治水施設の保全と整備
甲州舟運
船頭・荷役の生活
板子一枚に命をかける
富士川舟運が地域経済の根幹を担うものであったことから、これに携わる人々は、当時としては憧れの的であり花形の職業であった。舟を操る船頭は村中では「肩で風を切って」歩けた。しかし、危険と隣り合わせの毎日でもあった。 舟の乗組員は通常4人が乗り込み、責任者の船頭一人・半乗りと称する補佐役の船頭一人・小船頭とカマス背負いと言われた荷役(荷の積み下ろし)作業専門の者の4人である。甲州三河岸から岩渕河岸に下る舟は、船頭の舟を操る技術に全てがゆだねられ、乗船客の命や積み荷の運命は船頭の年一本に託されたのである。激流に竿を突き、水しぶきを上げて下る舟の姿は格好のいいもので、川沿いの娘らの心をくすぐったらしい。しかし、上り舟は大変であった。舟に綱を付けて急流を引き上げたのである。体力が求められ、健康でないと勤まる仕事ではなかった。富士川船頭唄(*1)は、下り舟の格好良さと、上り舟の苦労の様子を次のように歌っている。
「上り舟見りゃ愛想が尽きる、下り舟見でまた惚れる」
体力が勝負の乗組員達は、ご飯も大量に食べた。大きな「めんぱ」を携帯して、一度に一升もの量を食べたという話しも伝わっている。また、上り舟の時に綱を引くので、首と脇と背にタコ状のこぶが三つあって、それが船頭の勲章代わりだったという。
危険を伴う仕事だったので信仰には熱心で、また、縁起もかついでかたくなであったという。信仰では特に水、川の守り神である七面山を崇拝した黒沢河岸の人々は、早川町の山中にまつられている敬慎院の「お池」に舟を奉納し、また、青柳河岸の人々は、七面山の奥の院にある「ようごう石」という巨石にしめ縄を奉納したという。舟の遭難を連想させる「沈む」・「割れる」という言葉は忌み嫌い、使うことも聞くことも嫌がったという。
*1富士川船頭唄:昔より口伝で富士川沿川の人々に唄われた歌の一節