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関東の富士見百景

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    文学:詳細

    関東の富士見百景
    文学

    【33】武蔵野からの富士

    「かかる名高き所のわづかにも存して、今見ることをうるは当国にとりては美事」

    (『新編武蔵風土記稿代 第八』)

    江戸時代後期に作成された『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)に記述されている一文です。江戸時代から、ここ武蔵野では田園地帯の背景に富士山を眺めることができ、人々の心を魅了していたことがうかがえます。風土記とは、地方ごとに風土や文化などその土地の様子を記した書物のことです。文化七年(1810)、江戸幕府に新しい風土記の作成が提案され、幕府によって昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に地理局がつくられ、『新編武蔵風土記稿』が作成されました。『新編武蔵風土記稿』には、富士を眺望した武蔵野図が村の紹介にも挿入されています。

    (参考:小平市立図書館ホームページ)
    (参考:大井郷土資料館提供資料)

    【53】東京富士見坂 日暮里富士見坂

    「三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方にくれた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。」

    (太宰治『富嶽百景』)

    太宰治の『富嶽百景』に記されている一文です。杉並区善福寺地区周辺(天沼地区)のアパートに住んでいた太宰治は、このころ精神的苦悩の中にありました。作品のなかで描かれているアパートから見た富士山の眺めも、当時の太宰の心境を表現したものになっているように感じられます。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年)P.267-269)

    【79】小田原市からの富士 栢山から見た富士(二宮尊徳の見た富士山)

    「曇らねば 誰が見てもよし富士山 生まれ姿で 幾世経(ふ)るとも」

    (二宮尊徳道歌)

    二宮尊徳はここ栢山で、短歌を残しています。二宮尊徳(通称金次郎)は天明七年(1787)、ここ相模国足柄上郡栢山村(現小田原市)の農家に生まれました。 若くして両親を亡くすなど恵まれない境遇の中育った尊徳ですが、日夜一生懸命に働き、暇を惜しんでは勉学に励み、生涯をかけて数々の村おこし、町おこしを成し遂げました。その勉学への努力と偉大な功績から、各地の小学校に二宮金次郎像が多く建てられていることはあまりにも有名です。  現在も栢山では、田園風景の背後に悠々とした富士山を見ることができます。尊徳もこの富士山を見ながら、幼少時代を過ごしたのでしょう。

    (参考:二宮町商工会ホームページ)

    【81】逗子市からの富士 逗子海岸

    徳富蘆花(とくとみ ろか)は、兄徳富蘇峰(とくとみ そほう)が創刊した「国民新聞」に関わり、明治三十年(1897)正月から同三十三年十月まで、湘南逗子の避暑避寒の客に部屋を貸していた柳屋に住んでいました。この逗子での生活の中で生れた作品が、彼の文名を有名にした小説『不如帰(ほととぎす)』、そして随筆集『自然と人生』です。また晩年の自伝小説『富士』では、この地での蘆花夫妻の生活が描かれています。蘆花は当時の切り詰めた生活の中で、絵を描いていました。

    『見るもの、描くものが身近にざらにあつた。さしよりは富士である。あらめ屋の縁から富士は見えぬが、沓脱石(くつぬぎいし)を下りて十歩街道端に出れば、川向ふ養神亭のはづれから左手に富士が覗いて居る。(中略)街道に出て、二十歩西へ川口へ行く。川口の砂洲につづく相模の海、それを見越して真白の富士が北西にまさまさと現はれる。眼ざましい富士、東面の富士、そこには西から見る頂の歪みもなく、南から見る宝永山の大穴もなく、北から見る群山の小うるさい邪魔もなく、大空を上に、海を下に、のびのびと左右の裳を垂れて思ふさまゆつたりとした端麗な富士である。』

    (徳富蘆花『富士』)

    上記の『富士』の自伝からも分かるように、蘆花は文学を執筆することに加え、画筆をふるうこともありました。富士山についても、絵はよく描いていたようですが、やがて文字によっても折々の富士の美しさを写し出そうとします。こうして、『自然と人生』に収められた幾編もの富士讃歌が生れていきました。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年) P.206-207)

    【84】三浦半島(葉山町)からの富士 森戸神社

    西東三鬼(さいとう さんき)は、明治三十三年(1900)岡山県津山市に生まれました。新興俳句運動を推し進めていましたが、昭和十五年(1940)二月から始まった「京大俳句」事件では、刊行された句集の中に、反戦思想が読み取れると、検挙された経歴を持ちます。晩年、関西から神奈川の葉山に居を移した三鬼は富士山を題材にした句を多く残しました。

    「紅梅のみなぎる枝に死せる富士」
    「断層に蝶富士消えて我消えて」

    (西東三鬼『変身』)

    これらは、三鬼の最後の句集『変身』に掲載されているもので、句の中の富士山もしばしば死と隣り合わせたものになっています。なお、森戸海岸には、「秋の暮大魚の骨を海が引く」と記された西東三鬼の文学碑があります。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年) P.256)

    【86】湘南大磯からの富士 大磯照ヶ崎海岸

    「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮」

    (西行法師)

    平安・鎌倉時代を代表する歌人であり、僧でもあった西行法師が、東国へ下る途中に、大磯の海辺に立ち寄った際に詠まれたものです。この句は西行法師の詠んだ句の中でも有名なものです。富士山を題材とした句ではありませんが、おそらくはこの句の背景には夕暮れ時の富士山が写っていたものと思われます。

    この歌に詠まれている鴫の飛び立つ沢は、現在鴫立庵があるあたりの場所と伝えられています。その鴫立庵は寛文四年(1664)、小田原の崇雪なる人物が釈迦や阿弥陀など5つの石仏をこの地に運んで草庵を結んだのが始まりといい、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつとなりました。

    現在も西行上人の遺徳を偲ぶ大磯町の恒例行事「大磯西行祭」が毎年三月に、鴫立庵で行われています。

    (参考:タウンニュース(町田市・神奈川)ホームページ )

    【97】富士吉田市からの富士 富士山レーダードームと富士

    「富士山の白い全容が見えた 朝日を受けて浮き出すように 輝いていた」

    (新田次郎「富士山頂」)

    長野出身の新田次郎は学卒後の昭和七年(1932)に中央気象台(現気象庁)に勤務し、昭和十二年(1937)まで富士観測所交代勤務員として冬の富士山頂で過ごしました。この経験を生かして執筆したのが『強力伝』であり、昭和二十六年(1951)「サンデー毎日」30周年記念懸賞小説1等に入選、第34回直木賞も受賞しました。

    その後も、昭和三十八年(1963)から昭和四十一年(1966)まで気象庁測器課長として、ここ富士山レーダードーム建設を担当、文筆活動に専念するため退職しました。富士山をテーマにした作品はほかに冒頭の一節が掲載されている『富士山頂』『富士に死す』など、数多くが残されています。

    (参考:富士山ネットホームページ(山梨日日新聞社))
    http://www.fujisan-net.jp/data/article/1053.html

    【101】山梨市からの富士 差出の磯

    差出磯大嶽山神社からの富士山の眺望は、山梨十景にも指定されており、市だけではなく県の景観資源となっています。また、古今和歌集の「志保の山差出(さしで)の磯に棲む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」と詠まれたように、多くの歌人によってその風景が読まれた場所でもあります。

    【112】増穂町からの富士 日出づる里(高下)

    ダイヤモンド富士で有名な増穂町には、「うつくしきものミ(満)つ」と直筆で書かれている高村光太郎の文学碑があります。うつくしきものミつとは、美しいものが3つあるということを示しており、一つ目は富士山、二つ目は柚子、三つ目は住んでいる人の心の清らかさ、を示していると言われています。光太郎がこの地を訪れたのは、昭和十七年(1942)十月十四日新聞連載の随筆、日本の母「山道のおばさん」の取材のためでした。

    このとき光太郎は迫る富士を見て「私は富士の名所を多く尋ねたが、こんな立派な富士は初めて仰いだ」と感嘆したそうです。

    (参考:富士川町ホームページ )
    http://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/kanko/meisho/sanpo.html

    【117】忍野村からの富士

    「避暑客や日落ちて富士の現れし」
    「茶の花に富士かくれなき端山かな」
    「青富士は立てり白樺も若葉せり」
    (水原秋桜子)

    これらの句は水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)によって詠まれたものです。
    水原秋桜子は俳句雑誌『ホトトギス(注1)』の同人であり、高野素十(たかの すじゅう)・阿波野青畝(あわの せいほ)・山口誓子(やまぐち せいし)と共に4Sと呼ばれました。しかしながら、高浜虚子との俳句に対する考え方の違いから、昭和六年(1931)には『ホトトギス』を離れ、自ら主催する『馬酔木(あしび)(注2)』に拠り、いわゆる新興俳句運動(注3)の口火を切りました。

    富士山に関する句で最晩年のものでは、「年越すや 不二の忍野の 蕎麦打ちて」という句があります。忍野は忍野八海と呼ばれる八つの湧水池で知られるところで、この句からは、富士山の湧水で打ち、ゆで上げた蕎麦の美味しさが想像されます。

    (注1)ホトトギス:明治三十年(1897)に創刊された正岡子規、高浜虚子を師とする俳句雑誌
    (注2)馬酔木:大正七年(1918)に創刊された俳句雑誌。
    (注3)新興俳句運動:秋桜子の独立によって喚起された、若手による俳句の形式をより自由なものにしようという運動

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年) P.252)

    【119】紅葉台

    「富士山も快晴。雪が白ペンキのように上のほうに残っている。赤っぽい夏富士だ。」
    「富士山は頂に笠のような雲を巻きつけて、全身を現している。秋の富士山の色になった。」
    (武田百合子『富士日記』)

    この文は、長編小説『富士』で有名な武田泰淳(たけだ たいじゅん)の妻百合子が発表した『富士日記』に記されているものです。

    武田夫妻は、昭和三十八年(1963)にここ山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原に山荘を建てました。そして、その山荘での暮らしの日記をつけ始めました。それが武田泰淳の死後、妻百合子によって発表された『富士日記』となります。冒頭に「これは山の日記です」とあるとおり、様々な場面で富士山の姿が描かれています。またこの日記では、山荘での生活を通じて関わる多くの人々が、生き生きと描き出されています。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年) P.290-291)

    【120】河口湖からの富士

    「ある夜月に富士大形の寒さかな」
    「流燈に大富士かげをひたしけり」

    (飯田蛇笏)

    飯田蛇笏(いいだ だこつ)は、明治十八年(1885)山梨県東八代郡境川村に生まれました。その後、上京して早稲田大学に学び、帰郷後は甲斐の山峡にて、句を詠みながら、その生涯を送りました。刊行された句集『山蘆集』『春欄』には富士山を詠んだ句が多く掲載されています。

    句の中にある「流燈(りうとう)」は、例年八月上旬に催される、ここ河口湖の湖上祭灯籠流しのことを表しています。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年)P.251)

    【122】御坂・鎌倉往還・三つ峠

    「富士には、月見草がよく似合ふ」

    (太宰治『富嶽百景』)

    御坂峠の太宰治文学碑にも刻まれている有名なこの句は、太宰治の短編小説『富嶽百景』の有名な一句です。

    『富嶽百景』には、御坂峠で執筆活動を行っていた頃の太宰の経験が綴られています。作品のはじめでは、御坂峠から眺める富士を「これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」と、富士山に反撥し、軽蔑さえする「私」(太宰)でしたが、富士を眺める生活の中での様々な出来事を通し、富士へ多様な印象を抱いていったようです。

     そして、この小説の最後は、次のように終わっています。

    「その翌る日に、山を下りた。まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿(ほほづき)に似てゐた。」

    (太宰治『富嶽百景』)

    この作品のはじめでは、富士山が、東京の「アパートの便所の金網張られた四角い窓から」見た、「沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる」「くるしい」などと表現されていました。しかし、物語が進むにつれて、「酸漿に似てゐた」「甲府の富士」とその表現が可憐なものに変化してることが分かります。

    (参考:久保田淳『富士山の文学』(文春新書 2004年) P.267-279)

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