現在のページ位置
トップ
事務所について
事務所基礎データ - 荒川の概要

事務所基礎データ

荒川の概要

荒川の概要

項目 データ 詳細
標高 2,475m 荒川は、甲斐・武蔵・信濃の三国にまたがる標高2,475mの甲武信ヶ岳を源とし、奥秩父の険しい山々に深い谷をきざみ、東に流れます。
流路延長 173km 荒川の流路延長は、甲武信ヶ岳の荒川起点から東京湾の河口まで173km。日本の川の中で15番目に長い川です。
流域面積 2,940km2 流域面積約2,940m2のうち、山地面積は1,423km2、丘陵・台地・氾濫原等の平地面積は1,517km2。荒川は山地と平地がほぼ半分ずつです。流域面積は、日本で第19位です。
放水路部分の長さ 22km 岩淵水門から下流の荒川は、度重なる洪水から首都東京を守るため、人工的に掘削された放水路(大正13年〈1924〉通水)です。
流域内人口 約930万人 荒川の下流部は、首都圏を貫流する典型的な都市河川。人口や資産が極度に集中しているため、求められる治水安全度も非常に高くなっています。
流域人口密度 約3,100人/km2 荒川全流域の人口密度は、約3,100人/km2。なかでも荒川下流部の沿川では約12,900人/km2と全国一級河川中最も人口密度が高く、資産や都市の中枢機能が集中しています。

「荒ぶる川」荒川

「荒ぶる川」荒川は古来よりたびたび氾濫し、人々を苦しめました。そんな水害からの開放を求める声が強まる中、ついに荒川改修を決定付ける壊滅的な大洪水が首都を襲いました。明治43年(1910)の大洪水です。東京の下町のほとんどが浸水し、死者369名を出しました。

荒川放水路の誕生

明治43年の大洪水をきっかけに、翌年(1911)岩淵から中川河口まで、全長22km、幅500mにもおよぶ大規模な放水路が開削されることになりました。工事は20年もの歳月を要し、のべ310万人もの人が働き、昭和5年(1930)に完成しました。

工事の歩み

1910(明治43年) 大水害を契機に荒川の改修計画が立てられる。
1911(明治44年) 放水路事業始まる。測量・調査・用地収用に着手。
1913(大正2年) 人や馬を使って高水敷を掘り始める。
1914(大正3年) 浚渫船を使って河口部分より低水路を掘り始める。
1916(大正5年) 岩淵水門起工。
1917(大正6年) 9月30日、記録的な高潮で船舶・機械流失損傷。
1918(大正7年) 新川水門、綾瀬水門起工。
1919(大正8年) 小名木川閘門、隅田水門起工。
1921(大正10年) 木下川、中川水門起工。綾瀬川通水。
1923(大正12年) 9月1日、関東大震災。28ヶ所で堤防が崩れたり、裂け目が入る。
1924(大正13年) 岩淵水門竣工。荒川放水路全線に水を通す。
1930(昭和5年) 荒川放水路工事が完成する。