第3節

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L島崎藤村旧宅
島崎藤村旧宅





            N滄浪閣(伊藤博文旧邸)
           滄浪閣






R六所神社六所神社

建久3年(1192)、北条政子の安産祈願として
神馬が奉納された。











       O大磯町郷土資料館
        大磯町郷土資料館
         
丘陵一帯が神奈川県立城山公園になっている。







 町を過ぎると松並木が両側を覆い、途中に島崎藤村が最晩年を過ごした旧宅や、滄浪閣(伊藤博文旧邸)がある。

 西小磯の東方山側には村の鎮守白岩神社があり、例祭正月七日には歩射による流鏑馬神事が行われる。

 西小磯と国府本郷との境に城山といわれる城跡がある。現在、丘陵一帯は神奈川県立城山公園となっており、一角に
大磯町郷土資料館がある。
 
 城山の切通しを過ぎると東海道は国道一号と分かれ、大きく山側に折れ曲がる。

 この場所にある西長院(元梅林寺)には首切地蔵、化地蔵、身代地蔵といわれる地蔵があり、国府本郷に至る。

 中丸の地は、大磯宿より一里(約4km)離れたところで「立場」と称し、荷馬の休息所であった。

 また西方には一里塚があり、塚の上には各榎が植えられていた。国府新宿には、相模国の総社と唱える六所神社があり、五月五日が例大祭。この祭りを
国府祭という。

 大磯宿を過ぎると、東海道の道幅はおおむね三間(約5.4m)幅であった。





国府祭(大磯町提供)
国府祭

この大祭には、近郷五社の御輿(宮本村一ノ宮・山西村二ノ宮・三の宮村三ノ宮・四の宮村四ノ宮・平塚新宿八幡)が、国府本郷村にある神揃山、高天原というところで神事を行う。この祭事は養老年間に始まったとされ、治承4年(1180)には頼朝の参詣もあった。








               大磯町の歩みメモ


 大磯の名は、『和名抄』に見える余綾郡伊蘇郷に比定される。また、天平十年(738)、正倉院御物の白布墨書に「  郡大□ 大磯里戸磯部白髪 調并庸布壱端」とある。

 宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、『吾妻鏡』文治四年(1188)六月十一日に、奥州平泉の藤原泰衡から朝廷へ進納する品が「大磯駅」に着いたとの記載がある。また、建仁元年(1201)六月一日に、源頼家が「大磯」に止宿したとあり、鎌倉に近い交通の要所として繁栄した様子がうかがえる。

 東海道の宿駅には、慶長六年(1601)に指定。明治四年(1871)、廃藩置県により大磯宿は足柄県に編入。

 同九年(1876)、神奈川県に編入。同十四年(1881)、県会議員中川良知らによって、自由民権運動の拠点として湘南社の事務局が置かれる。

 同十八年(1885)、初代軍医総監松本順は、大磯の海岸が健康増進を目的とする海水浴場に好適であることに着目し、照ケ崎に海水浴場を開設する。

 同二十二年(1889)の町村制施行により、淘綾郡大磯宿・高麗村・東小磯村・西小磯村が合併して大磯町となる。同二十九年(1896)、大住郡と淘綾郡が合併して中郡となり、中郡役所が大磯町に置かれ、大正十五年(1925)七月廃止。

 昭和二十九年(1954)、国府町(国府本郷村・国府新宿村・生沢村・黒岩村・虫窪村・西窪村・寺坂村)を合併して、現在の町域となる。




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