柳町と西仲町との間、街道北側に要法寺がある。この境内に、「高見王の子政子東国に下向ありしとき当地で逝し、埋めて一堆の塚を築く、その塚が平になり平塚の地名が起こった」とされる旧跡がある。 東海道の北側柳町に平塚宿の鎮守、春日神社がある。 古くは黒部宮といって建久三年(1192)、頼朝が北条政子安産祈願に神馬を奉納した宮で、その社地は東海道より六、七町海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝える。 少し先に上方見付跡がある。この辺りから大磯方面を見ると、広重の絵に描かれた、お椀を伏せたかたちの高麗山が見える。 高麗山を望む 平塚宿のはずれから西を望むと、お椀を伏せたかたちの高麗山が見える。 東海道はこの先、国道一号と合流し、大磯へ向かうことになる。 平塚宿は、空襲により五町のうち柳町を残して残り四町すべてが焼失し、その後、復興事業や国道の整備により、昔の面影は残っていないが、史跡の碑や説明板が街道沿いのあちこちに立っている。 |
F要法寺平塚の塚 平塚の地名の由来にちなむ碑。桓武天皇の孫・高見王の子、平政子が東国へおもむく途中、この地で亡くなったため、塚がつくられ、それがいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれたという。 G春日神社 |
平塚の名は、『吾妻鏡』に「範隆寺平塚」「黒部宮平塚」とあるのを初見とする。 宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和五年(1316)ごろ、鎌倉に滞在していた益性法親王の上洛の際の書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿としての機能を整えていたことがうかがえる。 東海道の宿駅には、慶長六年(1601)に指定される。慶安四年(1651)に平塚新宿を加宿に編入。明治四年(1871)、廃藩置県により平塚宿および加宿平塚新宿村は足柄県に編入。 同五年の大区小区制施行により、平塚宿は二大区十小区に属した。同九年(1876)、神奈川県に編入。同二十二年(1889)の町村制施行により、平塚町となる。 昭和四年(1929)、須馬村と合併。同七年(1932)、市制を施行する。同二十九年(1954)、旭村を平塚市に編入。同三十一年(1956)、近隣の大野町、神田村、城島村、岡崎村、土沢村、金田村を平塚市に編入。同三十二年(1957)、金目村を平塚市に編入し、現在の市域が確定した。 |
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