第2節


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 町屋を過ぎ、小出川(古くは赤池川)を渡る。この辺り古くは相模川の流路であったとされており、関東大震災の時、橋の手前の左側の田が隆起、七本の橋脚が出現した。

 この橋脚は頼朝がつくらせた橋のものではないかといわれている。なお頼朝はこの橋の落成式の帰途、落馬が原因で死亡したという。

 また馬が川で溺れて死んでしまったので馬入川となったともいう。

 今宿から中島に至る辺りは、かつて相模川が流れていた。江戸時代、相模川(馬入川)の渡河は船渡しであった。

 現在の馬入橋の辺りに渡船場があり、付近の村々から船頭が交替で動員された。
















F南湖の左富士
写真7

富士山の街道の左側に見える場所として東海道中で珍しく、その名がある





        G旧相模川の橋脚
    写真8
         
大正12年(1923)の関東大震災の際に水田の中から出現したもので、現在は池がつくられ国の史跡として保存されている。この出現により、現在の小出川が相模川の旧街道であったことが分かった。




              茅ヶ崎市の歩み・ 



 寺尾からは平安時代中期の大寺院遺跡が発見され、古瓦などが出土している。市の西部は大庭氏の開発地として伊勢神宮に寄進され、大庭御厨となった。大庭御厨のうち懐島郷を拠点としたのが大庭景義。頼朝に協力し、鎌倉造営に中心的働きをした。

 懐島地域は、相模川が流れるなどしており、頼朝が橋を架橋するなど交通の要衝であった。十四世紀に町屋が形成されていた。懐島地域はその後たびたび支配者が交代したが、室町時代には熊野や伊勢信仰が流入、ちがさき、まちや、やはた等の村名が熊野や伊勢の御師の記録に見える。

 近世の市域には二十三カ村の複数の旗本などが支配する相給村落があった。海岸地帯は半農半漁の漁村でもあったので漁場の争論が起こったが、近世の中期には次第に海岸地先の漁場が確定していった。東海道の立場であった南湖の茶屋町は、元禄から享保期ころに茶屋が開業し、参勤交代大名などの休憩地となった。相模川河口の中島村は対岸馬入村への東海道の渡船場が置かれ、柳島湊の船や周辺農村から船頭が動員された。

 明治二十二年(1889)、町村制により茅ヶ崎、鶴嶺、松林、小出の四カ村が成立。同四十一年(1908)には小出村を除く三カ村が合併、茅ヶ崎町が誕生。昭和二十二年(1947)には茅ヶ崎市となり、同三十年(1955)には小出村の一部を合併し現在の市域となった。



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