権太坂

長い坂を上る左側に、権太坂改修記念碑が立っている。旅人が坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人が「権太と申します」と答えたのがその名の由来ともいわれる。







E境木地蔵尊

この辺りが武蔵国と相模国の国境である。

 町からは権太坂(ごんたざか)となる。保土ヶ谷バイバスを越え、県立光陵(こうりょう)高校を右手に見ながらだらだらの長い坂道を上り切ると、武蔵国と相模国の国境である境木(さかいぎ)に到達する。

 ここには
境木地蔵があり、当時は一服する旅人を目当てとした茶屋が並び、名物の牡丹餅(ぼたんもち)が食されたという。

 境木より薄暗い焼餅(やきもち)坂を下ると、品濃(しなの)の一里塚が見える。左右一対の原型をよく残している。

 さらに進むと、東海道はほぼ丘陵の頂部を進んでおり、眺望が開けている。

F品濃の一里塚

日本橋から9番目の一里塚。



 在の横浜市域は十八区から構成され、三百三十万人を超える人口は全国政令指定都市の中でも第一位である。かつては武蔵国久良岐郡・都筑郡・橘樹郡と相模国鎌倉郡に属し、江戸時代の村数では二百カ村を超える広範な地域である。

 市域には縄文・弥生時代の遺跡が確認され、そのころより人々が生活していたことが分かる。鎌倉時代になると、金沢には北条氏の一族金沢氏の居館が置かれ、それに隣接した六浦湊は鎌倉の外港として繁栄した。さらに中世後期には神奈川湊が繁栄していたことが知られる。

 江戸時代には東海道のほか、中原街道・矢倉沢往還が市域を通っており、江戸の周辺地域として重要視された。とくに東海道の宿場である神奈川宿・保土ヶ谷宿・戸塚宿は、地域における経済・文化の中心として賑わいを見せていた(各宿の十九世紀半ばの人口は神奈川宿が約六千人、保土ヶ谷宿と戸塚宿が約三千人である)。

 横浜市域の発展において大きな契機となったのは、幕末の嘉永六年(1853)と翌安政元年(1854)の二度にわたるペリーの来航である。これによって、幕府は開国を余儀なくされたが、とくに安政元年の際には横浜村に応接所が設置され、日米和親条約が締結された。

 さらに安政五年(1858)の日米修好通商条約により神奈川の開港が決定したが、幕府は東海道から離れた横浜の開港を主張し、工事を進めた。その結果、翌六年六月二日に横浜は開港した。これ以降、横浜の地は近代化・文明化の窓口として発展していくこととなる。

 明治二十二年(1889)の市町村制の施行により、横浜区と外国人居留地をまとめて横浜市が誕生する。その後、次第に周辺の町村を編入したが、とくに昭和二年(1927)と同十四年(1939)には大規模な拡張が行われ、現在の市域の範囲が確定された。







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