国土交通省 関東地方整備局 富士川砂防事務所
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砂防と災害

  • 災害の記録

    体験談

    当時 武川村消防団員談

    当時 武川村消防団員イメージ画像

    昭和34年の災害の時は、被害が出る3~4日前から雨が降り続いていました。私は8月14日の午前6時ころに、消防活動に出動しました。当時、自動車を持っていましたので、それで土嚢を運ぼうとしていたんです。

    しかし、7時少し前ころにさらに雨がひどくなって、まるでバケツをひっくり返したような状況になったんです。それで私はもうだめだと思って、家に戻って家族を連れ出したんです。家を出るのとほぼ同時に、土石流が「ドンッ」と家に流れ込んだので、本当に一瞬の差で命びろいをしました。家の周りでは、電柱が倒れて電線が「ビッビッ」と音を立てていました。うちのお婆さんは、自動車がクルッとひっくり返って流れていくのを見たらしいです。それで、私は、家族を連れて近くの丘まで歩いて避難しましたが、水が腰近くまであって流れもあり、子供と一緒に水の中に転げ込んでしまったりしながら、なんとか丘まで避難することができました。

    その後、避難してから20~30分後には家に戻ったんですが、家の形や柱はそのまま残っているものの、家の中がそっくり流されていて、家の中には細かい砂が1メートル以上も堆積していました。タンスの中や障子の桟にまで砂が入っているんです。家の裏に倉庫があったんですが、地面ごと流されてしまって、しかもその場所が深さ4~5メートルほども掘られていたんです。自動車もどこかに流されてしまいました。家の土砂は、村の人にも手伝ってもらって出して、1ヶ月くらいでなんとか住めるようになりました。

    雨が多く降って水が増えると、川から泥の匂いがしてくるんです。最近はそういったことは無くなっているように思いますが、34年の災害の時もすごく匂っていました。また、あのときは音もすごくて、堤防の石が「ガラガラ」といって崩れていきました。川の音が長坂町の方でも聞こえたなんていうこともありましたが、本当に恐ろしい災害でした。

    当時 武川村三吹在住者談

    当時 武川村三吹在住者談イメージ画像

    8月14日は直にバケツをこぼしたような雨で、すごい雨音がしたので、私どもは4時30分ころから起きてました。鳥がその日に限って、馬鹿にチュンチュンと鳴いていました。台風が来るということで、逃げ出せるような態勢だけはつくっておきましたが、あんなに大きな土石流が来るなんて夢にも思わなかったので、避難するということは全然考えていませんでした。一時、河川の水がすごく減ったというので「よかったな」という安堵感もありました。

    しかし、6時40分ころに消防団の「堤防が切れた」という声がしたので、親戚の人に帳簿と子供だけを預けて避難させたんです。私と家内もすぐ後を追おうとしましたが、6時50分ころ、もう屏風のように真っ黒な土石流がバアッときたので、私どもはもう無一文でそのまま家から飛び出しました。家の裏の高台の上の石に乗っかって、自分の家や倉庫が流れるのを見ていました。一時水かさが減りましたから、釜無川橋方面の人が一旦避難させておいた荷物を戻しているときに土石流が来たのです。

    土石流は材木と石と泥とコンクリートを練ったようなもので、10メートルくらいの高さの壁が「ザアッ」と来る感じですごい水の勢いでした。大武川橋がちょうどつっかえ棒のような形になって、そこが切れると同時に土石流が流れて、新開地のあたりも流されてました。当時は、ボルトで土台を留めずに、御影石の上に建物をただ置いただけの木造の家ばかりだったので、家はそっくりそのままの状態で浮いて、泥といっしょに流れていきました。私の家も、上流側の家が流れてきてもろにぶつかって、そのままずっと流されていきました。さらに当時、製紙会社があって山のごとく材木を置いていたので、それが泥水と一緒に牧原に流れてきたので被害が大きくなりました。

    土石流が来てから25分くらいで全部流されて、堤防の前ぎわの家が3軒残ったきりでした。残ったと言っても、ただ家が建っているというだけで、下から2、3尺くらいのところは、壁から何から全部そっくり流されてました。

    その時は長いような気もしましたけれども、きれいに水が引いてしまって、7時50分ころは、それこそ雲一つない夏のカンカン照りのお天気になりました。

    当時を振り返って、どんなに文明が進んでも、情報が一般に届かないと流言飛語が飛ぶので、情報の提示は一番大事だと私は考えています。

    当時 武川村三吹在住者談

    当時 武川村三吹在住者談イメージ画像

    災害の3日ほど前からバケツを空けるような雨で、ちょっと晴れ間も出るんですが、昼間でも暗い状況でした。前日には、釜無川橋の方の家はもう床下浸水してまして、12時ころには、うちも外の水が敷居を超えてきたので、家の中でタンスの下段を上に上げたりしてましたが、雨水がだんだん中に入ってきました。それでものんびりしてまして、近所の人たちと連れそって河原へ水を見に行って、「えらい水だねえ、こっちへくるのかしら」なんて話をしたり、近所の奥さんも「家も建てたばっかりで2階もあるし、流されることもないでしょう。私は2階へ逃げる。」なんて言ってました。

    それで、その晩はあまり熟睡できなかったんですが、14日の朝7時45分か8時くらいでしたか、「水だぞー、逃げろー」って家の前の道路を釜無川橋の方へ下った消防団の方がいたんで、その声で「あっ」と言って、長男の手を引いて姉達と一緒に家を飛び出して坂道を上がったんです。途中、姉の長男が「水見てくー」って振り向くので、ちょっとふりむいたら、山のような高さの黒褐色の水が迫ってくるんです。泥と大きな岩が混ざって、前面に竜巻みたいに風の渦が巻いていて、今までに見たこともない光景でした。それで、心臓が悪い姉が「苦しい、苦しい」って言いながらも、手を握って引っ張って高台のところまでいったんです。そして、振りかえったら、もう家はなかったんです。さっきの2階へ避難するといった奥さんも、息子さんと2人で家と一緒に流されてしまいました。さらにそこから高台の山の方へ避難しましたが、途中土砂崩れで手でかき分けながら行きました。

    娘達はその前から学校に避難させていたんですが、娘達が言うには、家が流されたころは、学校のガラスが「ガタガタ」言ってガラスが割れたりして、岩が転がる音で怖かったらしいです。明くる日、自宅の方へ戻ってみると、家は一軒もなくて、石と材木できれいに川に抜かれたって言うんでしょうか、釜無川そのものみたいな感じでした。

    当時は、私たちも水の恐ろしさとか全然知らなかったんで、流されるなんて思ってなかったし、まさか逃げることになるなんて考えもしなかったんです。避難したのは、私たちが本当に一番最後だったと思います。危機一髪まで水に追われて、振り向いたり、立ち止まる時間もないくらいでした。今でもあの「水だー、逃げろー」っていう一声で助けられたと思います。あれがなかったら流されていたでしょう。

    当時 武川村牧原在住者談

    当時 武川村牧原在住者談イメージ画像

    私は、武川村牧原の自宅で被災しました。8月14日の朝8時ころに人がやって来て、「あぶない、あぶない。」と言うんです。それで私は子供を背負って、金庫や時計を持って逃げ出しました。これが朝だったから良かったですが、もし夜だったらみんな死んでしまったのではないかと思います。

    逃げる途中、振り返って見ると、お爺さんとお婆さんが避難しようとしていたんですが、水が膝の高さくらいまであって動けないでいたので、私はロープを使って助けようとしたんです。そのとき、前の家がぐわっと倒れてきたので、私は目をつぶりましたら、次に見た時にはもうその家はありませんでした。ほんの数秒の間に家が完全に崩されて流されていき、後には何もなくなってました。お爺さんとお婆さんはそれに巻き込まれて、結局亡くなってしまいました。

    牧原では、200~300の家が流されましたが、立ったまま流れているものもあって、流された家は、大武川と釜無川が合流するあたりでつぶされていきました。もし、そこに人間がいたとしても、助けようがなかったんです。当時の大武川橋は小さかったものですから、上流にある駒城橋が流れてきてそこに詰まって、それで水が新開地に流れ込んだんですが、土石流は朝8時ころにドーンとここを流れて行って、12時ころには何も無くなって平らになってました。あとは水がちょろちょろ流れているだけでした。 

    当時、下三吹に私の親戚が住んでいたのですが、そこで私の弟と母親、子供の3人が亡くなりました。私は骨を拾おうと思って、釜無川沿いに韮崎の方まで探しに行ったんですが、自分の家がめちゃめちゃで家族もそこにいましたので、幾日も探し回ることはできませんで、結局、亡くなった家族の葬式は3年後になりました。 

    しばらくして私はバラックを作って、なんとか商売を始めました。ある時、東京の時計屋の卸商が来て、お金を貸してくれました。その人とは20年の付き合いだったのですが、そういう人がいてくれて非常に助かりました。

    当時 武川村三吹在住者談

    当時 武川村三吹在住者談イメージ画像

    当時、私は武川村三吹の自宅で被災しました。8月13日の夜12時ころにすごい横殴りの雨が降って、川では  「ゴットン、ゴットン」という石が流される音が響いてまして、腹までしびれるような、不気味な音でした。それと、川の水が濁って土の匂いがしていました。  暗かったこともあって、本当に不気味に思えました。 

    私の家が流されたのは、14日の朝7時20分くらいでした。家の裏を流れる大武川の水が次第に減り始めたのですが、これは上流で山が崩れて水がせき止められた為でした。それで、せき止められた水が満杯になって、一度に流れ出して土石流になったわけです。その時には、聞いたことがないような「ゴーッ」という音がしてました。石や砂、木などが一緒になって流れてくる音だったのではないかと思います。川の方を見ると、上流の山のふもとのあたりが雲がかかっているように暗くなっていました。

    この災害で亡くなった方は、家の中にいたという人が多いそうですが、家の中にいると外の様子が分からなくて逃げ遅れてしまうのだと思います。私は、消防団の活動の為に外に出ることが多かったので、周囲の状況がよくわかったんです。私たちは小学校に逃げていたのですが、家に戻ると、家は完全に流されていて何も残っていませんでした。5人くらいでやっと持てるような石が流されてきていたり、地面が2メートルほど掘り下げられていたりして、一瞬にして、その場所の様子はガラリと変わってしまっていたんです。 

    私は逃げる途中、荷物を運び出したり固定したりする人を何人か見かけて、その人たちにも避難するように言ったのですが、すぐには逃げ出さなくて、結局その人たちは流されて亡くなってしまいました。 

    水が流れ込んでくるのは一瞬の出来事なので、早く逃げるかどうかで生死が分けられると思います。私は、災害のときは子供を早く避難させること、また、水にはとても逆らえないから、自分もとにかく逃げることを考えることが重要だと思っています。これは私の経験から言えることなのです。

    当時 山梨日日新聞記者談

    当時 山梨日日新聞記者談イメージ画像

    昭和34年は、6月に韮崎支局へ転勤で来たばかりで、それまでは社会部を担当してました。 

    8月14日の早朝、警察から大水で釜無川が溢れそうだということで、武田橋の堤防へ行くと、既に橋の上部は流されていて、橋脚しかない状態でした。堤防に立っていると、足下へ水がビタビタ溢れてくるので、ここが溢れたら町までくるなんて言ってましたが、そのうち「ゴトゴトゴトゴト」地響きがしてきて、水がうなってとても嫌な音をたてて流れてくるんです。すると、警察と消防が「これは危ないから避難しよう、逃げろ!」ということで、町中へ逃げました。 

    しかし、逃げている途中に堤防が切れてしまい「ダダダダダ」と水に追いかけられました。当時の堤防は石垣でしたから、一つ石が流れ出すと石垣をえぐるように穴があいて、「ゴトゴト」と瞬く間に堤防が崩れるんです。その後、水と一緒に流れてゴミが家屋に「ドカン」とあたるんです。濁流は家の根本で渦を巻き、さらに二階建てを超すほどの勢いで家はたちまち崩れてしまいます。これが本当にわずかの出来事で、次々と家がなぎ倒しになりました。逃げるのが精一杯でしたが、水とはこんなに恐ろしいものかと感じました。 

    その後私は、自衛隊のヘリコプターで武川村へ取材に入りました。現地へ着いてもどこが道なのか全く分からない状況で、牧原の集落は一面が河原になってしまって、大きい石だらけでした。石の上や中州には人が立って呆然としてました。 

    それから約1ヶ月たつと、今度は15号台風(伊勢湾台風)がやってきました。風が強く、まだ堤防もちゃんと復旧できていなかったので、そっくりやられてしまいました。ただ、夜であったし、瞬く間に水が来たにもかかわらず、避難はよくできていました。みんな一度経験していたので逃げられたんだと思いますが、せっかく復旧した多くの家が再び無惨に流されてしまった姿には言葉も出ませんでした。

    当時 白州町土木係長談

    当時 白州町土木係長談イメージ画像

    台風7号の時は災害前から雨が降り続いていましたが、12日の夜から雨の量が多くなってきたので、13日の夕方より、対策本部を設置し、全員役場に集合しました。

    14日の早朝よりの集中豪雨と共に尾白川が氾濫したんです。尾白川の奥の渓流の木が、その前に伐採され搬出できないものが川の中に入り、一時的な自然ダムを造ったようになり、それが一度につき切れ、木材が随分流れてきました。その流木を処理するのも大変でした。それに、ここは花崗岩地帯で、花崗岩が風化した地質ですから、土砂の崩壊もあって、土砂がたくさん出ました。

    住民の方への連絡は、防水本部を設置してあったので、各部落の決められた避難場所へ避難するよう、各区長さんに電話で伝達しました。住民への周知は、当時防災無線も車も無かったので、鐘を叩いて対応しました。とにかく、急に水が出たので、伝達は大騒ぎでやりました。

    伝達が済んだ後は防水活動をしましたが、木流しするにしても流れに引っ張られてしまうので、自分たちの身が危なくてなかなか大変でした。とても、川のそばへ行って木流しするなんてことは、危なくて完全にはできなかったと思います。流れが速くて、急峻のところは難しかったです。ウシ(聖牛)なんかも結構作ったんですが、作っても根こそぎ持って行かれました。ウシ(聖牛)を入れたのは、水が引いてからで、とても氾濫中には、そんなことはできなかったです。氾濫中は、木流しで竹を流すくらいが命がけでした。特に、尾白川あたりは急流ですので、大変だったです。

    災害の後は、車もなくて、道路も良くない中、調査などは歩いてしました。また、県が支給した応急資材を貰いに行くのに韮崎まで行ったんですが、下の橋は全部流されていて、国道が切断されましたので、国界橋を渡って、富士川の左岸の小淵沢町・長坂町をまわって行きました。国界橋も流されてまして、自衛隊が来て応急的に仮橋を作ったので渡れましたが、次の台風に備えての防水資材を持ちに行くのは大変なことでした。いずれにしろ、1週間ばかり家へは帰らないで、役場へ寝泊まりの日が続きました。各部落に於いては、男女を問わず災害現場に出労し、「ウシ(聖牛)づくり」等の作業に協力しみんな真剣でした。

    この災害のことも、今ではぼつぼつ忘れられてきています。防災訓練は町が毎年やっていますし、防災対策もしっかりやってくれていると思いますが、「災害は忘れた頃にやって来る」という諺にもあるように、昔のことをもう一回思い出すということも必要だと思うし、危険箇所の見直しもしなければならないと思います。

    当時 関東地方建設局利根川水系砂防工事事務所調査係長談

    当時 関東地方建設局利根川水系砂防工事事務所調査係長談イメージ画像

    台風7号の災害直後に、関東地建では、各事務所から調査係長クラスが集まって調査団を編成したんです。私は大武川の調査を担当しましたが、当時は航空写真を利用した調査技術もなかったので、各支流を山のてっぺんまで全部歩いて調査したわけです。

    約1ヶ月間、藪ノ湯を拠点にして、朝早く出て夜遅く帰ってくる毎日でした。甲斐駒ヶ岳の頂上にも数回登りましいた。大武川は山腹の崩壊が非常に多く、検縄を使って崩壊地の長さ、幅、深さを測り、崩壊タイプは何型と全部細かく報告書にまとめました。

    その調査の印象としては、山腹の崩壊が非常に多かったことと、あまり深い崩壊はなかったこと。それともう一つ、一番特徴的だったことは、河床の堆積物が全部持って行かれたことなんです。痕跡が残っているので分かったのですが、相当の厚さに溜まった河床の堆積物が、全部流されてしまっていました。それで、山腹の崩壊地から流出した土砂量と、渓床の堆積物が流出した土砂量、それと現在溜まった土砂量を推定して、それをもとに、下流した土砂量を計算してみたんです。すると実際に下流した土砂量は、渓床の堆積物が流出した土砂量の方が、山腹の崩壊地から流出した土砂量よりも割合が大きいことが分かったのです。

    昭和34年災害の前までは、河床堆積物の調査資料なども不十分で、下流に流出した土砂のほとんどは、山腹の崩壊地からの土砂量と見ていました。今後の砂防計画を考える上では、どこの土砂がどう川に出てきて、どこにどう溜まって下流へ流れたかというのを知る必要があるわけですから、昭和34年災害の時に堆積物の重要性が見出されて、その後の調査や対策の技術が進んだと思います。

    特に、川岸の堆積層や谷出口の広い扇状地形を観察すると、当地域は過去何千年、何万年の間に34災いのような土砂流出が何回となくあったことが分かります。今後も上流山地では岩石の風化浸食作用や地震活動などにより、土砂の生産準備が続いていきます。当地域は糸魚川-静岡構造線など、活断層が発達しており、今後も大規模な土砂流出が十分考えられます。私達はこのことを十分理解し、今後とも砂防事業などの災害予防対策に力を入れる必要があると思います。

国土交通省 関東地方整備局 富士川砂防事務所
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