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千葉古街道歴史散歩
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 嘉元3年(1303)の開創。幕末の志士・吉田松陰が江戸・長州桜田藩邸で脱藩して水戸に逃亡する際、宿泊したといわれ、山門前に記念碑が。松戸市指定有形文化財の鉦鼓は、東葛地方で3ヶ所しかない時宗遊行派のもの。その他、上本郷七不思議の一つ「切られ地蔵」(*1)がある。もともと覚蔵院にあったものだが廃寺となった為、本福寺に移され現在に至っている。  建長八年(1256)に、小金城主、千葉介頼胤が、真言宗の大日寺を開いたのが始まり。のちに衰退した寺を、臨済宗に変え、寺名を足利義満・氏満の両満から万満寺と命名し再建された。山門のカヤ材の寄木造の金剛力士像仁王門、阿像と吽像の二体は国の重要文化財。この阿像の股くぐりをすると丈夫になるといわれ、祭礼当日は大変な賑わいになる。他に大田道灌の奉納した阿弥陀如来もあり、豊臣秀吉や徳川二代・三代の将軍より朱印70石をうけた朱印寺として栄えてきたといわれている。  文明13年(1481)に根木内に開かれ、高城氏が小金城に移ると同時に現在地に移転。江戸時代に、関東十八壇林(*2)の一つに加えられた名刹。壇林となった東漸寺は広大な境内に多くの建物を擁し、大寺院となった。徳川家との親交も深く、寺宝の中には「徳川家康公肖像」や「神君(家康)公御返書」、「水戸光圀公の書翰」などがある。また、境内の樹齢約300年のしだれ桜は、見事な花を咲き誇ることで知られており、開花時期には近在近隣や首都圏からも、参拝人や見物客で賑わう。
   
 あじさい寺の名で親しまれている日蓮宗の名刹中の名刹。建治3年(1277)、高弟日朗が開党建立し、日蓮が長谷山本土寺と命名したのが始まりと伝えられる。水戸黄門が植栽・寄進したという松杉などの大木がつらなる長い参道の正面に、丹塗りの仁王門が。日蓮上人の高弟日像や日輪の誕生の井戸があり、井戸水は乳水の霊水として遠方まで知られ、諸病治癒の効があるといわれている。    関東3弁天(江ノ島・不忍)の一つで通称紅竜山東海寺という。享保期に水戸藩主や領主の参詣もあって、成田山と並び称された。鐘楼は、総欅 入母屋造り銅板葺きで多宝塔型。基壇の上に、12本の円柱に囲まれた円形の塔身があり、円柱の上部に配した十二支の彫刻で方位を示しており、とても珍しい。裏手の七里ヶ渡しは、水戸街道の脇往還の重要な渡し場だった。毎月第一土曜日と日曜日(小雨決行)に、弁天骨董市が催されている。    「我孫子宿本陣跡」の標識向かいに小熊家がある。小熊家は宿場の問屋兼名主で、脇本陣を勤め、明治に入ると郵便御用取扱所を開設。茅葺の屋根が当時の宿場の面影を今に残している。一般には非公開。本陣の離れは、少し離れた場所にある旧村川別荘に移築された。茅葺屋根は瓦葺に変更されているが、こちらは一般公開されているので、ぜひ見学をオススメしたい(水、土、日のみ開館)。付近には志賀直哉邸跡や白樺文学館、旧武者小路実篤邸などがあり、文化財を巡り散策すると楽しい。
*1) “その昔、覚蔵院の境内で盆踊りが行われ、その踊りの中に見慣れない大男が現れ踊り始めた。これを怪しんだ若者が刀で切りつけると悲鳴を上げ消えた。翌朝、境内を見ると石地蔵の胸に刀傷があり、昨日の大男は踊り好きな地蔵の化身であったとわかり、若者は驚き、平伏したという。”
*2) 栴檀林の略で、僧侶の修行寺をいう。