東海道をさらに進むと引地川に出る。現在は直進して引地橋を渡るが、かつての東海道は川の手前で屈曲してから引地橋を渡った。

 その道が現在でもわずかに残されている。引地橋を渡ると右側に曹洞宗養命寺がある。ここの本尊薬師如来座像は国の重要文化財。『東海道分間延絵図』にも「ヤくし」と描かれている。

 さらに東海道を進むと道が緩やかに右に湾曲してくる。左富士と呼ばれた場所である。

 さらに道は藤沢バイパスに合流する。この辺りに四谷(四屋)の立場があった。

 本陣立場茶屋をはじめ、かつては何軒かの茶屋があった。またここは大山街道の四谷道の起点でもあり、右向かいには大山不動を頂く道標をおさめた小堂がある。

 またかつての大山道には一の鳥居が立っている。浮世絵にも四谷立場の様子が描かれている。

 東海道も四谷から二ツ屋を過ぎるとすぐに茅ヶ崎市に入る。この辺りが藤沢宿の入り口からちょうど一里。かつては両側に一里塚があった。









        引地川手前の道
             




H大山道の分岐点

東海道が藤沢バイパスと合流する地点に、
大山道の道標をおさめた小堂があり、
右に大山道の一の鳥居が立っている。







養命寺

本尊の薬師如来座像(非公開)は国の重要文化財で関東最古の玉眼入り仏像といわれる。












 

 古代藤沢が初めて記録に登場するのは天平七年(735)、鵠沼辺りと推定される「土甘郷」が見える。また片瀬郷から朝廷に布が献上され、延喜式には大庭神社と宇都母知神社が見える。鎌倉権五郎景正は境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、荘園として伊勢神宮に寄進した(大庭御厨)。

 頼朝挙兵に際して、大庭景親は平家方として参戦、片瀬河原で斬首された。時宗の開祖一遍は、鎌倉入りを阻まれ片瀬で踊り念仏を行うなどして布教を行う。正中二年(1325)、遊行四世呑海は藤沢道場(清浄光寺・通称遊行寺)を開山。以後遊行寺は戦乱のためたびたび炎上。

 永正九年(1512)、小田原の北条早雲は玉縄城を築城、三浦氏に備えるなどし、関東侵略の重要拠点とした。江の島は古来霊地として縁起などにも描かれているが、小田原北条氏は信仰の島としてだけでなく軍事的な重要拠点として関銭などを徴収して保護した。

 天正十八年(1590)、小田原北条氏が滅び家康が関東に入ると、御殿と陣屋が置かれ地域支配の拠点となった。また東海道が敷かれ、藤沢宿が置かれ伝馬の常置が義務づけられ、交通の要衝として、大山や江の島参詣の足場として栄えた。藤沢宿は近世後期になると地域の商品流通や文化の拠点となり、幕末には打ち壊しやbええじゃないかa騒動があり、人々の世直し意識が高揚した。

 藤沢における最大の文明開化は、明治二十年(1887)の鉄道開通。明治二十二年(1889)の市町村制により市域を含む九カ町村が誕生。明治四十一年(1908)に藤沢大坂町、鵠沼村、明治村を廃止し、その区域に藤沢町が誕生。昭和十五年(1940)には市制が施行された。その後次第に周辺町村を合併編入し、昭和三十年(1955)、現在の規模となった。








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