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千葉古街道歴史散歩
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 寺の始まりは文応元年(1260)。「立正安国論」を鎌倉幕府に提出したが認められず、逆に襲撃を受けてしまった日蓮がこの地に逃れ、豪族の富木常忍にかくまわれた。常忍は自分の屋敷を寺にし、近くの太田乗明も信者となり寺を建てる。後に2つが合体し、法華経寺と号するようになった。境内には国指定重要文化財の法華堂や国宝の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」「立正安国論」など日蓮上人に関係した遺品が多く保存されている。  本堂左手に「八百屋お七の墓」と伝えられる小さな墓石。天和2年(1682)、江戸で起こった大火の際、江戸本郷の八百屋の養女お七と一家が非難した白山の円乗寺にて、お七は寺男の庄之助に恋心を抱く。火事になれば再び会えると、翌年3/2に放火してしまい、放火犯として鈴ヶ森で火刑された。これを悲しんだ実母はお七の遺髪をもらいうけ、長妙寺に運び、葬ったという。東京の円城寺にも、八百屋お七の墓石が三基並んでいる。  永久2年(1114)、千葉氏一族臼井常康の築城。慶長9年(1604)までは、酒井家次の臼井藩三万石の拠点となったが、家次が上野国・高崎へ国替えとなった後は廃藩となり、城は破壊された。現在は臼井城址公園として整備されており、本丸跡からは印旛沼の眺望が開ける。
   
 佐倉城は徳川家康が老中土井利勝に築城させた関東有数の壮大な城郭。戦国期の鹿島城跡に6年掛けて完成させたといわれている。石垣こそほとんど使われていないが、自然の地形を利用した雄大な土塁と堀で構成されており、本丸・二の丸などの中核部分は、旧態をよくとどめている。敷地内の国立歴史民族博物館は、明治百年記念事業で建設され、日本の歴史学、考古学、民俗資料を収集展示している。    東京順天堂病院の前身として日本医学の歴史を伝える施設。その昔、佐倉は「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ、江戸末期に蘭学の盛んな町だった。その中心的存在であったのが、天保14年(1843)に佐倉藩主の堀田正睦に招かれた佐藤泰然が開いた蘭学塾兼診療所の佐倉順天堂。日本最初の私立病院である。現在は、一部現存する当時の建物を記念館とし、医療器具や医学書などの資料を展示している。県指定史跡。    江戸時代の庶民にとって、信仰の旅の目的地であった成田山新勝寺は天慶3年(940)に、平将門の乱の平定を祈願して寛朝大僧正によって建立された真言宗智山派の大本山。以来1060年余の間、護摩供の香煙は一日たりとも絶えることなく、古くから多くの信者を集めている。その名は江戸時代になってからが全国に広まり、特に元禄16年(1703)に江戸深川で出開帳(*1)を行い、人気を博したといわれている。敷地内には、成田山公園も隣接。
*1) 寺宝を持ち出して、他の場所で人々に拝ませる事。
成田山新勝寺では元禄16年(1703)に不動明王と二童子像をおさめた厨子を、深川・永代寺で開帳。時の将軍綱吉の母、桂昌院も参拝したという。これをきっかけに以後明治31年までに15回の出開帳が行われ、江戸の庶民と深く結びついた。