かわづくり
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わたらせ川を知ろう
船の利用と産業
舟の利用( 舟運 ( しゅううん ) )
今とちがって車や電車が 発達 ( はったつ ) していなかった頃、川を使った船による 運搬 ( うんぱん ) は人や食べ物などの 物資 ( ぶっし ) を 大量 ( たいりょう ) に運ぶための、大切な 手段 ( しゅだん ) でした。江戸時代には、米の 輸送 ( ゆそう ) などを目的に河川の 改修工事 ( かいしゅうこうじ ) も行われ、流域各地から 農産物 ( のうさんぶつ ) や 日用品 ( にちようひん ) などが江戸へ運ばれていきました。渡良瀬川には 河岸 ( かし ) (物資を積んだりおろしたりするところ)が16ヶ所もありました。
江戸時代中期頃の 記録 ( きろく ) によると、江戸へ運ばれた物資はおよそ80 種類 ( しゅるい ) にもなりました。主なものは、米や炭、木材、 織物 ( おりもの ) などです。また江戸方面からは、塩や油、酒などが運ばれてきました。織物 ( おりもの )
足利の織物は、 鎌倉 ( かまくら ) 時代に書かれた 随筆 ( ずいひつ ) 「 徒然草 ( つれづれぐさ ) 」の中にも出てくるほど古くからある産業でした。また桐生は江戸時代「西の 西陣 ( にしじん ) (京都で有名な織物のまち)東の桐生」と呼ばれていました。
織物は、渡良瀬川の水で染めた糸や布を洗い、渡良瀬川の舟運によって江戸をはじめ全国各地へと運ばれました。
また、渡良瀬川の支川・桐生川では布を染めるために使った 染料 ( せんりょう )ののりを落とすため、 豊富 ( ほうふ ) できれいな水を利用して洗い流す「 友禅 ( ゆうぜん ) 流し」の美しい光景が見られました。しかし今では、 化学染料 ( かがくせんりょう ) の発達や 機械化 ( きかいか ) のため、 観光用 ( かんこうよう ) として残されているだけとなりました。足尾銅山
足尾銅山は、江戸時代の 初期 ( しょき ) に 発見 ( はっけん ) されてから、1973年に 閉山 ( へいざん ) するまでの360年あまり、日本の産業を支えてきました。足尾銅山から 産出 ( さんしゅつ ) された銅は、全国の40%を占め、日本一の銅山でした。
しかしその 反面 ( はんめん ) 、 環境破壊 ( かんきょうはかい ) が大きな 社会問題 ( しゃかいもんだい ) ともなりました。「 鉱毒事件 ( こうどくじけん ) 」と呼ばれているものです。銅山から流れ出した 有毒物質 ( ゆうどくぶっしつ ) で川が汚れてしまったのです。
閉山後、 破壊 ( はかい ) された自然を取り戻すための努力が続けられ、渡良瀬川にもきれいな水が戻ってきました。また、現在「銅山 観光 ( かんこう ) 」としてテーマパークになっているので、トロッコ 列車 ( れっしゃ ) に乗って 坑内 ( こうない ) を見学することができます。