砂防と災害
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出張所管内の記録
白州出張所
災害の記録(34年・57年台風被害)
急流河川である五河川は、その豊富な水量で流域を潤す一方、急峻な地勢と脆弱な地質という悪条件の下で、古来から数々の氾濫や土石流を引き起こし、人々の生活に壊滅的な打撃を与えてきました。天文11年には、釜無川に大洪水が発生し、武田信玄によって信玄堤が築かれましたが、水害を防ぎきることは困難で、江戸時代に入っても数多くの災害が記録されています。明治には、森林の乱伐による山腹の崩壊で有史以来の大災害に見舞われ、太平洋戦争後はさらに河川の荒廃が進んで、度々被害が発生しました。
昭和34年、山梨を襲った台風では、ついに記録的な大災害となり、これを教訓に本格的な砂防事業が開始されました。人と自然の調和を目めざす砂防事業は着実に実を結び、昭和57年に再び山梨を襲った台風では、被害を最小限に食い止めることができました。昭和57年台風の被害
昭和34年台風の災害
昭和34年台風で最も激甚な災害を受けた武川村(現・北杜市武川町)が昭和44年8月14日に建立。碑文には「・・・茲に謹んで幽界に逝きし人々を偲び全国同胞の温情に感謝し且永久に治水興郷の実現せんことを祈念してこの碑を建つ」と記されています。
昭和34年と昭和57年の富士川水系災害比較
昭和34年の台風災害を教訓にすすめられてきた富士川水系の砂防事業は、34年の日雨量を大きく上回る57年台風では被害を最小限にくいとめることができました。