国土交通省 関東地方整備局 品木ダム水質管理所
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中和事業とは

  • 中和物語

    第1章 「死の川、吾妻川」を甦らせよう!

     吾妻川は「死の川」と呼ばれていました。上流から酸性の水が注いでいたため、魚などの生物も棲めず、コンクリートも溶けてしまう川だったからです。
     
     そこで吾妻川の上流にあり、火山の影響で強い酸性となっている湯川などの水を中和して、吾妻川を蘇らせようということになりました。しかし、中和すると言っても実験室のようなことが自然の河川でもできるのだろうか?材料は何を使おうか?と、分からないことだらけ。しかもこの事業は一度始めたら止めることができません。事業を継続していくために、経済的であることも欠くことのできない条件です。難題だらけのスタートでした。

    第2章 白羽の矢が立ったのは、不思議な「土木屋さん」

    武藤さん写真

     そんな難しい問題を解くために白羽の矢が立ったのは武藤速夫さんでした。

     当時は病気のために、3年間入院生活を送った病み上がりの体だったそう。武藤さんによると、中和事業に必要な化学的な勉強をするデスクワークならば体に障らないだろうと声がかかったのだと言いますが、もちろん、武藤さんの能力を見込んで、というのが本当のところでしょう。武藤さんは本来土木が専門でしたが、ついには世界で最初の中和事業を成功させ、「中和博士」の異名をとるようになったのです。

    第3章 世界的な事業は所長室の一角から?

     武藤さんはまず実験から取り組みました。中和に使うアルカリ物質に石灰を使えないかと考えて、群馬県内の工場から石灰をもらい、湯川の水を持ってきて入れてみたのです。しかし、勉強したようにはうまくいきませんでした。中和したらできるはずの石膏ができないのです。後に、中性になったときはじめて石膏が固体化して出てくるのであって、中性になりきらないうちは、石膏は液体として溶けている状態なのが分かりました。

     武藤さんは、これを細かく細かく実験していくことで知ったのです。そして、その苦労が役に立ちました。中和したときに石膏がたくさんできてしまっては、それを沈殿させるダムがすぐに一杯になってしまいます。それを避けるため、石膏が出てこないあたりまで中和することを考えたのです。こういった地道な実験は、利根川工事事務所の所長室についたてをたてた実験室で、道具は借り物、試薬はもらい物といった環境から始まりました。

    第4章 品木地区の人々の苦悩、水没補償の苦労

    かつての品木地区

     中和工場と切っても切れないもの、それは中和の際にできる物質を沈殿させる品木ダムです。

     ダムの建設が決まった品木地区には当時17戸の家があり、独自の伝統的な生活を営んでいました。ダムを建設するには、この地域の人々にどうしても別の土地へ移転してもらう必要があったのです。これは大変難しい問題です。たとえ生活のための土地や基盤を用意しても、先祖代々から大切にしてきた家や暮らしを手放すことは、そう簡単に納得できるものではありません。担当者は一軒一軒の家に何度も通い、話し合いをする努力をしました。あるときは山の中を歩き、あるときは大雪の中を訪ね、村の生活リズムに合わせて地区の人たちに会ったのです。そうして少しずつ話し合いを積み重ねた結果、ついには全ての家族に移転を了承してもらうことができたのです。

     地区の人にとっても、ダムの担当者にとっても、心と心をぶつけ合う大変な作業でした。

    第5章 ダムの完成、そして現在、未来。

    昭和50年頃の中和工場

     昭和39年、世界初の中和事業が開始され、昭和40年に品木ダムが完成しました。

     その後のさまざまな困難もひとつひとつ乗り越えながら、中和は今日までひと時も休まず続いているのです。中和事業のおかげで、吾妻川には魚などの生物が棲みはじめ、コンクリートなどを用いた強靭な橋などを作ることもできるようになりました。そして農作物の収穫増加や発電など下流の人々の生活に直接関わって役に立っています。

     ときには私たちの生活の影に、品木地区の住民をはじめ武藤さんなど、多くの人々の「想い」があることに気持ちを馳せてください。中和事業はこれからも続いていくのですから。

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