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千葉古街道歴史散歩
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 流山市の指定有形文化財に指定されている諏訪神社は「おすわさま」という名で人々に親しまれ1200年の歴史を持つ。源義家が奥州追討のため下向の際に馬の産地で有名だったこの地で戦勝を祈願するために参詣、帰途の際に再び詣で、乗馬及び馬具を奉献して神恩に報謝したといわれている。一万坪の境内には大樹がうっそうと繁っており、静寂が漂う。  三代将軍家三の頃、オランダから高価なペルシャ馬が輸入され小金牧に放牧されていた。しかし日本の気候や環境の変化に馴染めずに死んでしまい、それを哀れんだ村人が祠を建て弔ったといわれている。延宝4年(1676)建立。  日光東往還一番目の宿場の山崎宿は、水戸街道の小金宿から3里27町(約15km)あり、長い行程だった。東武野田線梅郷駅の西側に位置しており、当時の姿を残す物はないが、運河駅近くに、昭和初期に再建された木製の常夜燈が立ち、僅かに名残を残している。
   
 江戸時代の幕府の御用牧に放牧された野馬から田畑を守るために使われた他、将軍家が本筋の日光街道を使うときに、将軍に目通りの叶わない農民や町人、あるいは小身の侍が使ったものと考えられている。野田市役所付近は、かつて深い森であったため野馬除けの保存状態は良く、当時の御用牧の面影を偲ばせる。市役所前の歩道には日光東往還及び野馬除土手の案内標識がある。    平将門が名主の家で愛馬と共に休息した際、正月14日、餅つき後の温かいお湯を愛馬にやったところ、お湯の中に残っていた餅のため窒息死してしまったため、ここに手厚く葬ったと伝えられる。また、東北征伐の途中に源義家が立ち寄ったという言い伝えや、徳川家康が馬を休めた所といわれている。    初代関宿城藩主であった徳川家康の異父弟 松平康元が天正18年、お大の方(家康と康元の生母)の死去に際し、菩提を弔うために建立した。
最初は弘経寺であったが、家康がお大の方の戒名よりとって「光岳寺」と改めるようにいい寺号を改めさせたといわれている。