宿場において参勤交代の大名、公家、また幕府役人などが公用の旅で宿泊する宿舎が本陣である。本陣職を命じられたのは土地の旧家など由緒正しい家で、いわば幕府公認の大旅館ということになる。ここでは本陣の由来や構造などについて見てみよう。 |
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![]() ![]() 東海道分間延絵図に 描かれた本陣 東京国立博物館蔵 |
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![]() ![]() もともと本陣は、天皇が朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)などをする際に、その行列の中心である鳳輩(ほうれん)を囲む一陣をいった。それがのちには軍陣の中核、総大将のいる本営を意味したが、江戸時代には大名などの宿陣のいわれから、転じて道中休泊の中心となる民営の宿屋を指すようになった。 ![]() その始まりは、南北朝時代の貞治2年(1363)に足利義詮が上洛の途中、その旅舎を本陣と称し、宿札を掲げたことによるといわれるが、その史料的信憑性は定かではないといわれる。 ![]() その後、戦国大名の諸交通政策を承け、戦国末期からは本陣が出現し、慶長6年(1601)に伝馬の制が定められたのち、東海道では寛永の初めには各宿駅が整備され、本陣も次第に増加していった。 ![]() |
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![]() ![]() 本陣は、寛永12年(1635)の参勤交代制の実施以降に一般化したが、正確には前年、将軍家光の上洛に際して、東海道や美濃路などの宿駅大名宿の亭主が本陣役(本陣職)に任命されてからのことである。ただし、東海道宿駅の本陣役の始まりに関しては、幕府においても明瞭に把握されていたとはいえず、文政7年(1824)、道中奉行から代官を通じ、各本陣へその始まりを問い合わせている。 ![]() その時の保土ヶ谷宿軽部(かるべ)本陣、大磯宿小嶋本陣の答えによれば、本陣の発端は、家康の関東入国以来、諸大名が東海道を通行する際、家が広く、田畑山林を多く持ち、下男下女を多人数召し使っている者のところに休泊していたことに始まり、それがやがて慶長期から往来の増加とともに、定宿のようになり、「大名衆宿」と称するようになった。その後、紀伊家や尾州家、日光門主、幕府役人なども休泊するようになって、「大名衆宿」では不適当となり、寛永期に「本陣」と唱えるように申し渡された。しかしその時は「本陣職」という職分が決まったわけではない。「本陣」と正式に言い習わされるようになるのは、元禄以降、本陣と称していた者の中から道中奉行によって選ばれた者たちである、ということが明らかになる。 ![]() |
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![]() ![]() 本陣は原則として平屋造りで、多くの座敷や板敷、土間のほか、厳めしい門構えや広い玄関、床の間と違棚(ちがいだな)を配した書院造りの上段の間、その書院に続く庭園といった造りをしているのが特徴的であった。 ![]() |
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![]() ![]() 小島本陣宅間取図 大磯町郷土資料館蔵 (小島本陣文書) |
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