利根川の紹介
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歴史散歩「利根川の碑」
石田堤之碑(忍城の水攻め)
説明
慶応2年(1866)土地の名主、某によって堤根(現・行田市堤根)に「石田堤之碑」が建てられた。
天正の昔、忍城は西郡に利根川、荒川を塞き止められる水攻めにあった。堤は土地の農民の動員により、5日間で築いたという。石田三成の名に因む堤が失われるのを惜しんでの建碑だった。
忍城は平城ながら関東七名城の一つとされていた。それは内郭、外郭、曲輪がかつての利根の乱流跡に出来た池、沼、深田を巧みに利用していたからである。
天正18年(1590)2月、豊臣秀吉は北条攻めの軍を東海道と中山道の両面から進め、石田三成、長束正家ら2万3000が館林城を落とし、忍城を目指したのは6月8日。
石田三成は、丸墓山に陣取り忍城の地形から、その南面に延々と堤を築くことにした。農民に賃金を与えて工事を督励したが、人夫の者の中にはお互いに見知っていたせいか、籠城の者も紛れ込んだという。彼らはその賃金で糧食を求めて、城内に運び込んだらしい。
速成の堰堤であったためか6月13日の大雨には堤防が切れて、外側の三成陣営まで冠水。寄せ手の人馬に被害を与えている。
浅野、真田ら6000の援軍が加わったが効果なく、秀吉は小田原籠城中の成田氏長をひそかに説得し、開場させた。現在、石田堤は堤根橋に至る282メートルが県の史跡として保存されている。位置
埼玉県行田市堤根