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利根川の紹介

  • 歴史散歩「利根川の碑」

    大谷休泊の墓

    説明

    大谷休泊の墓 大谷休泊の墓

    渡良瀬川と利根川との間にひろがる渡良瀬川扇状地は、群馬県の東南部の東毛地域と、栃木県の足利市との間にまたがっている。この地域には古墳が多く、関東武士としての源氏の発祥の地としても知られている。この地域には新田荘などの荘園も発達していた。新田荘は新田義貞が総仕上げをしたといわれるが、用水や湧水は井戸に依存していた。この新田荘の東には荒野がひろがっていた。この地域を開拓するために新田堀や休泊堀が元亀元年(1570)ころできたといわれている。新田堀は太田金山城主、由良信濃守成繁が奉行荒山小左衛門に、また、休泊堀は館林の足利の城主、長尾但馬守顕長が奉行大谷新左衛門(休泊という号をもつ)につくらせた。
    休泊堀は、水源を渡良瀬川に求め、現在の太田市只上新田の地先に矢場堰を設けた。ここから多々良沼までの地域に上休泊堀を掘り、開墾を進め、次々と新しい村を誕生させた。
    休泊は、さらに多々良沼から用水を取る水路を開いて、下休泊堀とよんだ。上休泊堀は17ヶ村に配水し、その灌漑面積は合計599町1反5畝になった。下休泊堀の灌漑面積は497町1反2畝といわれている。上下休泊堀を合わせて1096町2反7畝(1087ヘクタール)と館林領五郡農家配水鑑に記している。ところで矢場堰も待堰(新田堀)も共に渡良瀬川から水を引いているので、渇水期になると水争いがしばしばおこった。明治10年、両堰は合併し待矢場両堰組合が設立された。

    位置

    群馬県館林市北成島

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