山梨を拓く 甲州街道とともに

時代が道を創り、道が時代を拓く。

豊かな自然が息づく山紫水明の地、山梨。
山々に囲まれた自然地形は、時として人の行く手を阻んだ。
しかし、いつの時代も、そこに生きた人々の英知により、道は拓かれていった。
江戸時代、五街道のひとつとして整備された「甲州街道」は、
甲斐国と江戸を結ぶ大動脈となり、
そこに人の交流や文化が生まれ、経済は大きく発展した。
新しい道は、新しい時代を連れてくるものだ。
そしてこれからも、山梨の豊かな未来へと、夢をつなぐ「道」の物語は続いていく。

【戦国時代】
戦国の歴史を刻むいく筋もの道。
武田家の繁栄が甲州街道を拓くきっかけになった。

甲州街道の地図

 甲斐国には中世以前から甲斐九筋(かいくすじ)と呼ばれる古道があり、江戸時代に編さんされた「甲斐国志」には「甲斐国から他国に通じる道は九筋あり、すべて酒折を起点にしている」との記載が見られる。甲斐国から駿河(静岡県)に通じる「駿州往還(河内路)」・「中道往還(右左口路)」・「若彦路」、相模(神奈川県)に通じる「鎌倉街道」、武蔵(東京都・埼玉県)に通じる「青梅街道(萩原口)」、「秩父往還路(雁坂口)」、信濃(長野県)に通じる「穂坂路」・「棒道(大門嶺口)」・「逸見路」の9つの古道が「甲斐九筋」とされる。これらの古道はできた時代や背景は異なるがどれも重要な役割を担う道だったと考えられている。
 戦国時代、軍事的意味においてはもとより、領国経済発展のためにも道路網の整備は不可欠なものであった。武田信玄の時代になると交通運輸網の整備は一段と進められ、甲斐九筋も整えられていった。信玄は領民の暮らしを守るため自国の領土を戦場とすることはなく、他国に攻め入り戦ったといわれている。天下統一を目指す信玄にとって軍用路の整備は非常に重要なものであった。甲斐九筋のひとつ「棒道(大門嶺口)」は信玄が北信濃攻略のための軍用路として造ったとされる。また甲斐国と駿河を最短距離で結ぶ「駿州往還」は駿河侵攻の際などに使われている。領国拡大に伴い道路のさらなる整備が進められ、軍勢の移動や物資輸送の利便性を図る中で、宿駅から宿駅へと軍事物資などをリレー式に輸送する伝馬制も発達していった。
 甲州街道が整備されるまで、甲斐国と関東を結ぶメインルートは青梅街道と秩父往還であり、いずれも大変な迂回路だった。

 では、後に甲州街道として整備されることになる関東への最短ルートは当時どのような道だったのだろうか。その道は「甲斐国志」によると「日陰の四寸道」とされ、その呼び名からも鬱蒼(うっそう)とした狭い道だったことが想像できる。大迂回路であるメインルートを行き来していた当時の人々が大変な苦労をしていたにもかかわらず、なぜ最短距離の「日陰の四寸道」の整備は進められなかったのか。それは甲斐国と関東の間をさえぎる難所中の難所「笹子峠」があったからだ。しかし「日陰の四寸道」は武田軍の関東への軍事行動でしばしば利用されるなど、軍事的には重要な役割を担う道であったといわれている。武田家の繁栄の中で開拓された甲斐国から隣国に通じるいく筋もの道は、時代の流れと共にその姿を変えた。そして江戸時代には、五街道のひとつ「甲州街道」が誕生することになる。

長峰砦(ながみねとりで)の甲州街道
 長峰(上野原市大椚地区)は武田氏と北条氏がたびたび小競り合いをした古戦場で、信玄の家臣・加藤丹後守景忠は「長峰砦」を築き、外敵進攻に備えたといわれている。発掘調査の結果、長峰砦跡で発見された甲州街道は、地形に沿って蛇行や上り下りが激しく、道幅も約1.2mと狭い道で「日陰の四寸道」と呼ばれた当時の表現が当てはまっていた。

長峰砦跡に建てられた石碑の写真

▲長峰砦跡に建てられた石碑(上野原市)

(提供:サンニチ印刷)

【江戸時代】
江戸城に不測の事態が起きた時の脱出路
甲州街道には軍事上の目的があった。

甲府城跡の写真

▲甲府城跡(甲府市)

(提供:サンニチ印刷)

武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されたが、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれている。現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されている。

 慶長8(1603)年江戸幕府を開いた徳川家康は、江戸を起点とした主要幹線道路である「五街道」の整備を行った。甲州街道は当初「甲州海道」と記されていたが、海沿いを通っていないことから正徳6(1716)年に正式名称が「甲州道中」に改められた。後に、一般的に「甲州街道」と呼ばれるようになり現在に至っている。甲州街道がいつ開設されたのか定かではないが、整備は慶長年間から元和年間にかけて行われた。「日陰の四寸道」と呼ばれた険しい場所を切り拓くのは、大変な難工事だったであろう。しかし、家康は急ピッチで整備を進めさせた。それは、江戸城に危機が迫った場合、要害の地勢に恵まれた甲府に逃れ甲府城に籠城するという戦術の道としての意味合いがあったからだと考えられている。

 本来、五街道は江戸幕府中心の統治を推進する政治的目的を持ち、公的な交通や物資運輸の機能を果たすために整備された。甲州街道は日本橋から始まり下諏訪で中山道と合流するまでの全長約210kmの道のりで、街道筋には45宿があったとされ、日本橋から甲府までが表街道、甲府から下諏訪までが裏街道と呼ばれた。
 五街道は大名の参勤交代などにより通行量が増えることで宿も繁栄していったが、文政5(1822)年の記録によると甲州街道を使った大名は五街道の中で最も少ないわずか3家だった。しかし甲州街道はさまざまな産業を発展させ、豊かな文化を花開かせながら、新時代を拓く道になっていったのだった。

上野原宿
 甲州街道、甲斐国最初の宿場。寛保2(1742)年から明治40(1907)年まで、毎月1と6がつく日に市が立っていた。郡内地域の農家は、農耕の傍ら家内工業的に絹や紬を織っていたため、市では荒物や日用品のほか、こうした織物が集められて盛んに取引されていた。市には相州や八王子から多くの仲買人が訪れてにぎわいを見せた。

上野原宿の写真

▲当時の面影が残る現在の上野原

(提供:サンニチ印刷)

甲州に元禄文化華やぐ。甲州街道の一大拠点・甲府の繁栄。

 甲斐国が幕府直轄領となると、甲府城の警備などを行う勤番士として多くの武士が江戸からやってきた。彼らが娯楽として歌舞伎芝居を楽しむようになると、たちまち城下の庶民の間にも広がり、甲州にゆかりのある市川團十郎など、江戸歌舞伎のスターたちの名演に人々は夢中になった。また、浮世絵師も甲州を題材に作品を描くようになり、「甲州道中は浮世絵師の持ち場」と言われていたという。安藤広重の「甲陽猿橋の図」や、葛飾北斎が「富嶽三十六景」のひとつとして描いた「甲州伊沢暁」(現在の石和)など、数々の名作が生まれた。松尾芭蕉をはじめとする多くの歌人や文人も訪れ、風光明媚な甲州の地は文人墨客を魅了した。このような華やかな文化に影響を受け、町も人も洗練されていった甲府は活気にあふれた。そして産業も発展し、人の往来も活発になっていったのである。

 元禄時代の江戸は文化だけでなく経済も大きく発展し、それに伴い甲州の産業も活性化していった。浮世草子の創始者といわれる井原西鶴の作品にも登場する郡内織物や、「峡中八珍果」と称された甲州名産の葡萄をはじめとする果物などが、江戸の人々に知れ渡っていった。甲州街道は江戸とさまざまな取引をするための道として重要な役割を担い、また富士山信仰の「富士講」や身延山の参詣者など、庶民の往来も増えていった。こうして甲州街道は幕末に向けて繁栄の一途を辿っていったのである。しかし慶応4(1868)年に勝沼大善寺付近で、新撰組局長・近藤勇率いる幕府軍と、板垣退助率いる官軍との戦いが勃発した。「柏尾の戦い」と呼ばれるこの騒動は、江戸時代の崩壊を印象づけるものとなった。

甲州伊沢暁の写真

▲「甲州伊沢暁」葛飾北斎

(山梨県立博物館蔵)

甲斐叢記に載る峡中八珍果の写真

▲甲斐叢記に載る峡中八珍果(山梨県立図書館蔵)

【明治時代】
明治維新は、山梨の近代化の幕開けを告げ
交通革命と呼ぶべき進化の時を迎える。

甲州猿橋の遠景の写真

▲明治天皇御巡幸の図「甲州猿橋の遠景」

(山梨県立図書館蔵)

 明治天皇が明治13(1880)年に山梨・長野・三重・京都へ巡幸されたとき、猿橋付近を通過されている模様を描いたといわれている。

藤村紫朗の写真

藤村紫朗(出典:山梨県広報誌ふれあい)

 弘化2(1845)年肥後国熊本藩の黒瀬家の次男として生まれる。兵部省役人として京都小参事、大阪参事を経て、大小切騒動のため失脚した山梨県初代県令・土肥実匡の後任として明治6(1873)年二代目の県令に就任。学校・道路の整備をはじめとした山梨の近代化を推進する施策を展開し、勧業政策としては勧業製糸場や試験場を整備するなど、山梨の産業の発展に尽力した。

 明治という新しい時代を迎え、日本は活力を増し、海外との貿易も盛んに行われるようになった。「甲州商人」たちも山梨の特産品を貿易の拠点である横浜港に運んだ。しかし江戸時代から明治の中期にかけて、山梨の交通運輸は甲州街道、駿州往還、鎌倉街道、そして富士川舟運のいわゆる「三道一水」が主であったため、江戸や横浜に荷物を運ぶためには、笹子の険しい峠を越えて行かなければならなかった。文明開化の時代の波に乗り、山梨の近代化を進めるため、明治6(1872)年に県令(知事)となった藤村紫朗は殖産興業の施策として「道路開通告示」を出し、道路整備を急いだ。明治時代になり関所などが廃止され、街道を誰もが自由に往来できるようになったことから、新しい交通手段として明治4(1870)年に人力車、同6年に馬車が現れた。するとこれまで3日を要していた甲州街道36里の行程がわずか1日に短縮され、交通の利便性がもたらす山梨の発展への期待はさらに高まっていった。

 そして明治36(1903)年、いよいよ国鉄中央線が開通の時を迎えた。東京八王子から甲府への鉄道敷設は最大の難所である笹子峠にトンネルを通す難工事だった。当時の日本最長を誇る全長4,656mの笹子トンネルは完成まで実に6年の歳月を要したという。これにより東京八王子と甲府はわずか6時間で結ばれることとなり、驚異的な時間短縮と物資の大量輸送が実現した。中央線の開通は山梨に交通革命をもたらしたと言えるだろう。中央線は昭和6(1931)年の電化により、さらに2時間スピードアップすることになる。しかし、交通の進化はこれに留まらず、まもなく自動車の時代を迎えるのだった。

大正初期の甲府駅の写真

▲大正初期の甲府駅

(出典:甲府工事事務所80年の軌跡)

【大正・昭和時代】
悲願の笹子トンネル開通。
山梨の発展を担う大動脈が誕生した。

甲州街道最大の難所笹子峠の写真

▲甲州街道最大の難所笹子峠

(出典:甲府工事事務所80年の軌跡)

御坂峠七曲の写真

▲御坂峠七曲

(出典:甲斐路と富士川)

 山梨県においては藤村紫朗県政で道路整備を推進したものの、鉄道に比べれば道路建設の遅れは顕著であった。明治18(1885)年に初めて国道が定められ、国道16号と認定された甲州街道は、大正8(1919)年の旧道路法制定、同9年の国道路線の制定により、新たに国道8号と呼ばれるようになった。
 この頃のルートは、笹子峠ではなく、御坂峠を経由していたことからも、笹子峠越えがいかに困難なものだったかを物語っている。昭和13(1938)年、約2年間の工事の末に笹子峠にトンネルが完成した。しかしそれは山頂付近を通過する長さ240mほどのトンネルだったため、峠の山道を通る必要があり、まだ便利になったとは言い難いものだった。大正8(1919)年の山梨における自動車台数はわずか12台にすぎなかったが、昭和15(1940)年には約1500台に達していた。モータリゼーションの訪れは、もうそう遠くないところまで来ていたのである。

 戦後、近代道路網の整備が急速に進められていった。昭和27(1952)年の新道路法により国道8号線は、「一級国道20号」と名称を変えた。国道20号は東京から山梨を経て長野県の塩尻を結ぶ大動脈となり、産業や文化のさらなる発展が期待された。この発展を実現するためには、自動車交通にとって最大の難関である笹子トンネルの改良が急務だった。そこで県は新笹子トンネルを有料道路とする計画を立て、昭和30(1955)年に国の直轄事業として着工したのである。
 そして昭和33(1958)年全工事が終了し、延長2,953mの新笹子トンネルが完成した。当時その延長は関門道路トンネルに次ぐ日本で2番目に長いものであった。新笹子トンネルの開通によって、峠越えより距離にして8.6km、時間で約45分短縮された。また、御坂越えの旧国道8号線と比べると距離にして約40km、時間で約1時間40分もの短縮となった。東京-甲府間は自動車で2時間半の距離となり、山梨の産業、経済、観光等の飛躍を担う重要な役割を果たす道路となった。
 しかしながら、甲府市内の国道20号は幅員が狭く、道が直角に曲がり「かねんて渋滞」と揶揄される箇所もあるなど、急増する自動車交通に支障をきたすようになっていった。そのような状況を打破するために整備されたのが「甲府バイパス」である。甲府バイパスは勝沼バイパス終点から果樹園地帯を通り、竜王バイパスに至る14.4kmの道路で、県内で初めての多車線道路(4車線)として昭和49(1974)年に完成した。

新笹子トンネルの開通
 昭和33(1958)年12月、新笹子トンネルの開通により、峡東地方の農業は米、養蚕から京浜地方を市場とする果樹生産に方向を変え、現在の果樹王国への歩みを始めた。

新笹子トンネルの開通式の写真

▲新笹子トンネルの開通式

(出典:写真が語る甲府工事の80年)

国道20号甲府バイパス4車線開通の写真

▲国道20号甲府バイパス4車線開通
(出典:こうふのかわ・みち100年ものがたり)

中央自動車道開通。新たな交通ネットワークが山梨の可能性を広げた。

 昭和32(1957)年、「国土開発縦貫自動車道建設法」により、中央道の建設が法令によって定められた。昭和37(1962)年東京-富士山麓間の建設が決定され、昭和44(1969)年に中央道富士吉田線が開通した。一方、工事の困難さや、採算性に課題があるとして検討が重ねられてきた小牧までのルートは、当初予定されていた中部山岳地帯ルートではなく、甲府から諏訪を経由するルートに変更され、これにより中央道の全線ルートがようやく決定したのである。甲府盆地については山岳地帯を通過する北回りの案も出ていたが、盆地のどこからでも利用しやすいようにと現在の南回りルートが選ばれた。

 こうして構想から長い時間を経て、昭和57(1982)年11月、勝沼―甲府・昭和インター間の供用開始をもって中央道は全線開通することとなった。新笹子トンネルの開通と、中央道開通は、山梨県の交通ネットワークに多大な影響を及ぼし、山梨は大きく進化していった。果物など農産物の流通増加、企業誘致、観光需要の増加など、産業、経済が急速に発展した。また、ぶどう狩りなどの観光農園も脚光を浴びるなど、山梨ならではの魅力を広く発信していく契機にもなった。モータリゼーションの進展と同時に、国道20号、中央道、バイパスなどが次々に整備されていったことは、山梨の人々の暮らしの利便性を高め、豊かさの実感に繋がっていったとも言えるだろう。

大和村(現甲州市)で撮影された中央道の写真

▲大和村(現甲州市)で撮影された中央道
(出典:甲斐路と富士川)

勝沼バイパス開通テープカットの写真

▲勝沼バイパス開通テープカット
(出典:甲府工事六十年史 富士川と甲斐路)

【平成・令和時代】
道はいつも人々と共にあり、
新しい時代を連れてきてくれる。

甲州街道(国道20号)の甲府バイパス昭和インターチェンジ付近からの空撮の写真

▲甲州街道(国道20号)の甲府バイパス昭和インターチェンジ付近からの空撮

(提供:サンニチ印刷)

 甲州街道は急峻な山間部を走り抜けるため、大雨による災害で通行止めになることが少なくないが、令和元(2019)年の台風で倒壊した大月・法雲寺橋の架け替えなど、国土強靭化に向けて、山間地を中心に各地で道路改良事 業が進む。老朽インフラのメンテナンスも求められ、街道の中で「難所中の難所」といわれた新笹子トンネルでも新たなトンネル工事が動き出している。
 令和の時代を迎え、交通網はさらに充実し、多彩な未来を見せてくれようとしている。中部横断自動車道の山梨-静岡間開通により、東名高速道路、新東名高速道路、中央自動車道が結ばれ、広域流動が増加した。それにより地域産業は活性化している。清水港を活用し、山梨特産の農産物や県内企業の製造品の輸出拡大も期待されている。また新山梨環状道路の整備も進み山梨を取り巻く交通網は現在も進化し続けている。さらに山梨と東京を約20分、東京と大阪を約1時間で結ぶ世界最速のリニア中央新幹線の開通が近い未来に実現すれば、まさに夢のような高速交通ネットワークの時代がやってくるだろう。これからも、かけがえのない山梨の美しい自然環境や受け継がれてきた地域の文化を守りながら、道は生まれていく。そして道はきっと、明るい未来を連れてきてくれるに違いない。

  • 【参考文献】
  • 「甲府工事事務所 80年の軌跡」発行:国土交通省関東地方整備局 甲府工事事務所
  • 「関東の道 関東歴史街道」発行:関東建設弘済会
  • 「甲州街道 歴史資料集〜豊かな未来を目指す山梨の道〜」発行:建設省関東地方建設局甲府工事事務所
  • 「やまなし歴史の道ツーリズムの手引き」発行:山梨県観光文化部
  • 「山梨近代人物館ウエブサイト」
    (http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_jinbutsu/jinbutsu22_fujimura_shirou.html )