駿州往還 中部横断自動車道への道

葛飾北斎 富嶽三十六景「身延川裏不二」(山梨県立博物館所蔵)

駿州往還 中部横断自動車への道

未来に向かって拓かれる
「中部横断自動車道」。
静岡、山梨、長野の3県を結ぶその「道」の歴史は長く、昔から人々の生活を支え、時代や暮らしの変化に応じて姿を変えながら、今日まで便利さや豊かさなど多くのものをもたらしてきています。
そんな「道」の歴史をたどります。

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第一章 山梨の歴史をかたちづくった「甲斐九筋」

甲斐の国・山梨には中世以前から「甲斐九筋(かいくすじ)」と呼ばれる甲斐国と他国をつなぐ9つの古道があります。

江戸時代後期に編さんされた「甲斐国志」(巻一)には「九筋」の項があり、「本州九筋ヨリ他州ヘ達スル道路九条アリ皆路首ヲ酒折ニ起ス」、つまり「甲斐の国から他国へ通じている道は9筋あり、みな酒折宮を起点としている」と記されています。

9つの古道は甲斐から駿河(静岡県)に通じる「駿州往還〈河内路〉」、「中道往還〈右左口路(うばぐちじ)〉」、「若彦路」、相模(神奈川県)に通じる「鎌倉街道」、武蔵(東京都・埼玉県)へ向かう「青梅街道〈萩原口〉」、「秩父往還路〈雁坂口〉」、そして信濃(長野県)に通じる「穂坂路」、「棒路〈大門嶺口〉」、「逸見路(へみじ)」です。

▲「甲斐の古道歴史公園」にある甲斐九筋のモニュメント

これらの古道はできた時代も背景も異なりますが、それぞれの地域で人々の手によって拓かれたものです。そしていつの時代も生活に欠くことのできない重要な道として、地域の暮らしや産業、文化を育んできました。

現在、山梨県内の主要道である国道52号、138号などは「甲斐九筋」が時代とともに変わりながらできた道です。その道筋のあちこちで、祖先が築いてきたこの地ならではの文化や伝統を感じ取ることができます。

「甲斐九筋」は、まさに山梨の歴史をかたちづくってきた道なのです。

▲駿州往還(みのぶみち)の起点を示す石碑(甲府市相生)

第二章 戦国時代、軍事戦略の要だった駿州往還

「駿州往還」は甲斐と駿河を結ぶ最短の道筋で、富士川沿いに開かれたこともあり、戦国時代には軍事面や物流面で重要な役割を果たしました。

武田信玄は永禄11(1568)年、駿河侵攻時にこの道を通り、今川領や後北条領に攻め込みました。それから13年間、信玄は駿河を支配しましたが、普段は甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきのやかた)にいるため、敵の攻撃などを知らせる通信手段として狼煙(のろし)を用いました。

富士川沿いにいくつもの狼煙台や砦を設け、狼煙の色やあげ方で何が起きたかを知らせることができる一大伝達網を築きました。駿府城と躑躅ヶ崎館は100㎞ほどの距離がありましたが、狼煙によって約2時間で情報が伝わったといわれています。

▲穴山信君が発行した「伝馬手形」

また街道には伝馬宿(てんましゅく)とよばれる宿場がいくつも設けられていました。

伝馬宿には本城と支城などを連絡する伝馬が設置され、宿場ごとに人馬を交代して書状や荷物などを運ぶ「伝馬制」が整備されていました。

武田氏の家臣である穴山信君(あなやまのぶただ)が残した伝馬手形写には、岩間、下山、南部、万沢、内房が伝馬宿として記されています。

▲今も残る当時の史跡「真篠城(まじのじょう)跡」(提供:南部町)

第三章 富士川舟運が開通、
鰍沢河岸(かじかざわかし)は流通の拠点に

その昔、甲斐の国から江戸に向かうには、笹子峠を越えるか、駿河まで歩いていくしかありませんでしたが、江戸時代に入り、徳川家康の命を受けた角倉了以(すみのくらりょうい)が、慶長12(1607)年から「富士川舟運」の航路の改修に乗り出しました。

山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに日本三大急流の一つである富士川の航路開削工事は航行の支障となる岩や難所が多く、また当時は土木技術が十分でなかったこともあり大変困難を極めたと想像されます。

5年間の歳月を要して改修工事を完成させ、慶長17(1612)年、富士川町の鰍沢(かじかざわ)から静岡県富士市の岩淵までのルートを高瀬船が行き交う舟運が開かれました。

▲舟運開発当時を描いた「天神の滝工事絵馬」

駿河へ向かう下り荷は幕府への年貢米が中心で、甲斐に戻る上り荷は塩が主であり、「下げ米、上げ塩」と呼ばれていました。

また、岩淵までの行きは半日で下る一方、鰍沢への帰りは船頭たちが船に縄をつけて引っ張り4~5日かかったそうです。船頭たちは大きな苦労をしましたが、舟運の運行により人と物の流れは大きく変わり、陸路の駿州往還と交わる地点であった鰍沢河岸は流通の拠点として大きく発展していきました。

最盛期には400艘を超える船が行き来して江戸への主要なルートとして活躍した富士川舟運は、各地から物や人を運んだだけでなく、文化や風習、伝統など多くをこの地にもたらしました。

▲舟運が盛んな頃の南部町津出場(つだしば)[提供:サンニチ印刷]

コラム:人々の暮らしや命を守る治水対策

富士川は私たちの暮らしに欠くことのできない大切な水を運び、発電などにも利用されたり、水辺のやすらぎを生んでくれたりする存在です。しかし日本三大急流の一つでもあり、ひとたび大雨が降ると濁流へと姿を変え、恐ろしい洪水を引き起こします。そんな災害を避けるため、富士川では様々な治水対策が行われきています。

かつて富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が存在した富士川町鰍沢の富士橋下流に広がる禹之瀬(うのせ)地区は、甲府盆地南端に位置します。富士川が中流山間狭さく部へ流下していく呑口部にあたる場所ですが、川幅が極端に狭いため、洪水時にはその上流においてたびたび浸水被害が発生していました。

昭和57(1982)年の台風10号では上流の白子地区、船場地区で大きな浸水被害が生じました。それを契機に富士橋下流から約1,300mを対象として浸水被害を解消するための河道を広げる大規模な掘削工事が行われました。

ほかにも上流にあたる釜無川の信玄堤(しんげんづつみ)や、笛吹川の万力林(まんりきばやし)など、富士川流域には歴史的な治水施設もあり、人々の暮らしや命を守る重要な役割を担っています。

▲禹之瀬河道整正工事の様子

第四章 江戸時代、身延山詣でにぎわう甲斐の国

江戸時代になり全国的に治安が安定すると、庶民の間で観光行楽が行われるようになりました。ご利益が授かれると人気だったのが、寺社仏閣を詣でる旅です。

富士川舟運の開通により人の行き来が容易になり、徳川幕府によって日本橋を起点とした街道の整備も行われたことにより、日蓮宗総本山である身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を参詣する身延山詣でも盛んになりました。

庶民だけでなく、学者や文化人なども多く訪れ、元政上人(げんせいしょうにん)の「身延のみちの記」や十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「諸国道中金草鞋(しょこくどうちゅうかねのわらじ)」など、数多くの日記や紀行文も残されています。

▲シダレザクラでも有名な身延山久遠寺(提供:身延町)

身延山には久遠寺を中心に東谷、西谷、中谷の3つの谷に31の坊が点在していて、現在は約20の坊が宿坊として参詣客を迎えています。なかには江戸時代から続く宿坊もあり、その歴史を今に伝えています。 また身延山の総門から三門に続く町並みは門前町と呼ばれ、多くの参詣者が訪れ発展してきました。 身延町下部(しもべ)には1200年以上の歴史を誇り、「武田信玄の隠し湯」といわれる下部温泉があります。戦国時代には信玄をはじめ、合戦で傷を負った多くの兵たちが湯治して傷を癒したと伝えられていて、江戸時代には身延山詣でに来た人々の旅の疲れも癒しました。

▲身延山詣の人々を癒やす下部温泉郷(提供:身延町)

第五章 鉄道敷設とともに舟運が終焉し物流が一変

明治時代になり社会情勢が大きく変化する中、流通する物資も多様化、増大化し、富士川舟運を利用する人々もさらに増えていきました。

それに伴い航路の改修が進み、舟も大型化し、プロペラ舟なども運行するようになり発展していきましたが、明治36(1903)年、中央線が甲府駅まで開通したことを機に、物流は舟運から鉄道へと移り変わっていきました。

それまで富士川舟運が運んでいた重量安価物といわれる食塩や砂糖、熟鉄、石油、鰹節、雑貨、米などが、中央線によって運ばれるようになりました。

▲身延線(甲府—富士駅間)初の電気機関車の試運転成功

また人の移動も甲州街道を利用して甲府から東京まで行くには3、4日もかかりましたが、中央線の開通によって甲府と東京は約6時間で結ばれました。

明治44(1911)年には中央線の甲府—小淵沢駅間も開通し、さらに昭和3(1928)年に富士川沿いを走る身延線が全通したことに伴い、316年にわたり多くの物と人を運んできた富士川舟運は、その長い歴史に幕を下ろしました。

そしてさまざま物を山梨に届け、県内各地にも送れるようになるなど、物流を一変させた鉄道の開通は、人々の東京との行き来も盛んにし、山梨の発展を加速させました。

第六章 車社会の到来
道路も整備されより自由な移動に

昭和30(1955)年から昭和45(1970)年にかけて、日本経済は世界でも類を見ないほどの高度成長を遂げます。それに伴い個人の所得も上昇し、個人消費の拡大をもたらすなど、人々の暮らしは大きく変化していきました。

テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機の「3種の神器」が普及し、次に「3C」と呼ばれるカー、クーラー、カラーテレビが人々の願望の的となりました。

なかでも自動車は次々と国産車が市場に出回り、一挙に大衆乗用車が充実したことで「マイカーブーム」が起こり、山梨県内でもたくさんの車が行き交うようになりました。

▲国道52号旧大和(おおわ)峠(南部町)

マイカー時代の到来を背景に各地で道路の整備も進み、移動は個人化し、より自由になり、余暇を楽しむレジャーブームも訪れました。休日は家族でマイカーに乗って周辺の行楽地などに出かけて楽しむ人々が増え、山梨県でもマイカーで山や海などに気軽に出掛ける人が多くなりました。

海のない山梨県の人たちにとって、夏の海水浴や行楽を楽しむ地として一番身近なのが、静波海岸などがある静岡県です。ゴールデンウイークやお盆休みともなると、静岡につながる国道52号は海や行楽地を目指す車で渋滞するようになりました。この国道52号は静岡から石油などのエネルギーを山梨に運び入れる物流ルートとしても重要な道路となり、多くの大型トラックが行き来するようにもなりました。

こうして道路は単に移動に利用するだけではなく、旅行や毎日の通勤、物流など、人々の暮らしに欠くことのできないものとしてさらに発展を遂げていきました。

コラム:安全対策で道路通行はより安心に

現在の一般国道52号は、元二級国道141号の静岡、山梨、長野を結ぶ幹線のうち、清水・甲府間が昭和37(1962)年に昇格してものです。昭和38(1963)年度から地形・地質にあわせた防災を主体とした改良工事が進められ、昭和46(1971)年度に一次改築が完了しました。

昭和42(1967)年度からは管理業務も始まり、当時は管理延長31㎞でしたが、現在は73.1㎞と延び、より安全に通行できるようになり、静岡と連携する幹線道路として重要な役割を果たしています。

また道路通行のさらなる安全を図るため、国の直轄国道では昭和44(1969)年から、異常気象時等にあらかじめ通行止めを行う「事前通行規制制度」が導入されました。
昭和43(1968)年8月18日に岐阜県加茂郡白川町の国道41号で発生した、集中豪雨による土石流に観光バス2台が巻き込まれて多くの犠牲者を出した飛騨川バス転落事故を契機に整備された制度です。

事前通行規制区間の指定は、昭和50(1975)年代前半にかけて進められ、ピークの昭和52(1977)年度には224区間1,379㎞が指定されました

その後、各区間で法面防災対策が実施され、安全性が向上したことにより、順次、規制区間は解消され、平成27(2015)年度4月には175区間、980㎞となりました。

国道52号では昭和52(1977)年当時、6ヵ所が規制区間に指定されていましたが、防災事業等の対策の実施により、現在は2ヵ所になっています。

▲異常降雨時の事前通行規制

第七章 高速化でさらに便利で豊かな毎日へ

昭和39(1964)年の東京オリンピックを機に、東京を中心に高速道路の急速な開発が進み、その後、各地で高速道路の整備が進んでいきます。昭和62(1987)年6月には「中部横断自動車道」が高規格幹線道路網として閣議決定されました。

「中部横断自動車道」は、静岡県静岡市を起点に山梨県甲斐市を経由して長野県小諸市に至る延長約132kmの高速自動車国道で、平成5(1993)年に増穂インターチェンジ(IC)~双葉ジャンクション(JCT)間に施行命令が出され、整備が始まりました。

平成14(2002)年3月には白根IC~双葉JCT間(6.8㎞)、平成16年(2004)年3月には南アルプスIC~白根IC間(3㎞)が開通。さらに平成18(2006)年12月に増穂IC~南アルプスIC間(6.2㎞)、平成29(2017)年3月には六郷IC~増穂IC間(9.3㎞)が開通しました。平成31(2019)年3月には新清水JCT~富沢IC間(20.7㎞)が開通して山梨県と静岡県がつながり、山梨県内の下部温泉早川IC~六郷IC間(8.4㎞)も開通しました。

その後も全線開通を目指して工事が続けられて、令和3(2021)年8月29日に南部IC~下部温泉早川IC間(13.2㎞)が開通し、山梨~静岡区間が全線開通しました。

また「中部横断自動車道」の今後の整備により中央自動車道、新東名高速道路、上信越自動車道が接続されます。太平洋と日本海が4時間で結ばれることになり、混雑する首都圏を避けて北関東と甲信静をつなぐことができる重要な交通基盤となります。

さらに高速道路ネットワークが形成されることで、災害時の復旧や被災支援が強化され、また交通事故や渋滞時等でも日常生活を維持することができるなど、より安心、安全に暮らせるようになります。

物流体系や観光ゾーンも広域化し、人々の暮らしをより豊かにし、さらなる楽しみをもたらしてくれるものと期待されています。

▲南部IC~下部温泉早川IC間の開通セレモニー(2021年8月)

これから新たな歴史を紡ぎ始める
「中部横断自動車道」
利用する人々がなにより安全に、そして便利に、
快適に通行できる道路であり続けるために、
今後も適切な維持管理が進められていきます。