地域との連携
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清流ルネッサンスII 江戸川・坂川
江戸川・坂川ってどんな川?
江戸川・坂川の昔話
利根川東遷(とねがわとうせん)と江戸川の誕生
その昔、利根川は東京湾に流れ込んでいました。また、その昔、江戸川という川はありませんでした。
どういうことでしょう?
江戸時代、江戸の町(現在の東京都)を洪水から守り、銚子から江戸までの交通路を開き、さらに田や畑を広げるために、利根川の流れを東に変えるという大工事が行なわれました。これが「利根川東遷(とねがわとうせん)」です。徳川家康の命により、文禄3年(1594年)に始まり、60年の月日が費やされました。
利根川東遷より前、今の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていました。下の地図のどこにあるでしょう?そう、地図の左側、渡良瀬川の下流ですね。
利根川東遷により、渡良瀬川は利根川に流れ込むようになりました。一方、関宿から金杉までの間を掘って新しい川を作り、利根川と太日川をつなぎました。こうして誕生したのが江戸川です。
かつての江戸川と人々の暮らし
江戸川って、なんで江戸川っていうのでしょう?
車がなかった昔、物を運ぶのは船でした。川は今の道路のかわり、大切な役割を担っていました。
上の図を見てください。太日川だった頃に比べて、利根川東遷により誕生した江戸川は、利根川を経由して、小貝川や鬼怒川、また太平洋といろいろな場所とつながっているでしょう?
新しくできたこの川には、江戸に物を運ぶための船が盛んに行き来するようになりました。そのため「江戸の運河」という意味から江戸川と呼ばれるようになったのです。
舟運が盛んになったことにより、江戸川沿いには河岸(船着場)がいくつもでき、野田のしょう油や流山のみりんなどの産業も盛んになりました。また、舟渡しも盛んでした。
かつて、江戸川周辺に暮らす人々は、江戸川と常に接していました。江戸川は生活の一部だったのです。農業を支えた坂川
利根川東遷により江戸川が誕生した頃、人々は主に農業で暮らしていました。坂川の周辺も同じ。人々は、農業を盛んにしようと新田開発を行ないました。松戸市の坂川放水路と江戸川が合流するあたりに今も残っている「主水(もんど)新田」「七右衛門(しちえもん)新田」という地名は、開墾した人の名前を付けたものです。
当時の坂川は、よくあふれる川でした。洪水をなくそうとする上流の人々と、それにより自分たちの田畑がつぶれてしまうことを恐れた下流の人々の間で争いが起きたこともありました。しかし、人々の話し合いと長い年月をかけた工事の結果、水害のほとんどない川へ生まれ変わりました。明治42年(1909年)のことです。
明治時代の終わり頃には、米の収穫量もとても増え、献上米(天皇家に差し上げた米)ともなった良質のもち米が生産された地域もありました。
農業だけではなく、坂川は、魚や貝などの食べ物をとったり、子供たちの遊び場になったりしていました。坂川もまた、人々の暮らしとかかわりの深い川だったのです。