傍示杭とは、境界のしるしに建てられた標柱のことで、街道施設に限っての名称ではないが、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示す重要な施設であったに違いない。杭は木製であるため、残念ながら当時の物を期待することはできず、浮世絵などによって想像するだけであるが、描かれた人間や馬の大きさと比較しても、かなり丈の高い木杭であり、そこには、境界を示す文言や里程などが墨書されていたようである。


藤川「棒鼻ノ図」
東海道五拾三次之内
藤川「棒鼻ノ図」

初代広重 保永堂版

神奈川県立
  歴史博物館蔵



浮世絵に描かれた傍示杭
傍(榜)示杭と聞くと、初代広重の保永堂版『東海道五拾三次』の「藤川(棒鼻ノ図)」を思い出す人も多いのではないだろうか。この図は、広重が同行したと伝えられている八朔(はっさく)の御馬献上の行列を描いたもので、宿端の見付まで宿役人が出向き、下座して一行を出迎えているところである。この画面ほぼ中央に、高札とともに棒鼻といわれる宿境の傍示杭が描かれている。

広重はこのシリーズのうち、神奈川県内でも2カ所に傍示杭を描いている。

1つは高麗(こま)山を背景に松並木を描いた平塚の風景であり、もう1つは大磯宿の入り口を示す傍示杭である。


平塚「縄手道」
東海道五拾三次之内
平塚「縄手道」

初代広重 保永堂版

神奈川県立
  歴史博物館蔵



東海道五拾三次之内
大磯「虎ヶ雨」

初代広重 保永堂版

神奈川県立
  歴史博物館蔵
大磯「虎ヶ雨」



『東海道宿村大概帳』に見る傍示杭
『東海道宿村大概帳』から県内における傍示杭を拾い出してみると、43本を数えることができる。そのうち、保土ヶ谷〜戸塚宿間の品野(濃)村には、武蔵と相模の国境を示す傍示杭が立っていた。

また、相模箱根宿先の山中新田境には、相模と伊豆の国境を示す傍示杭が立っていた。また、小田原・箱根宿を除く7宿には、両宿端に傍示杭が立っており、間(あい)の村の大半にも村境を示す杭の存在を確認することができる。


初代広重
東海道五拾三次之内
箱根

初代広重 行書版

箱根町教育委員会蔵


歌川芳員
東海道五拾三次之内
箱根

歌川芳員

箱根町教育委員会蔵