江戸時代の街道には、一里ごとに塚を築き、その上に大木が立つ「一里塚」があったことは、浮世絵の画面などから馴染みの風景であろう。街道を旅する人々にとって、一里塚は現在のキロポストと同様、里程の目印であり、さらに塚上の大木がつくりだす木陰は、一服の休憩場所であったと思われる。


『金川砂子』
『金川砂子』
国文学研究資料館史料館蔵
(横浜市歴史博物館提供)

一里塚の築造

慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じた。
これは、織田・豊臣政権下において、一里を36町(約3.9km)としたことを受け、日本橋を元標として各街道に一里塚を築造したものである。

神奈川県内の一里塚

神奈川県内の東海道には20カ所の一里塚が築造された。現在、当時の姿をしのぶことができるところは、次の3つしかない。
品濃(野)の一里塚茅ヶ崎の一里塚畑宿の一里塚
神奈川県内の一里塚位置図
畑宿の一里塚 茅ヶ崎の一里塚 品濃(野)の一里塚

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