第一節

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 崎ノ古戦場」の石碑を過ぎると山崎の切通しとなる。しかし当時は切通しではなく、相当な急坂であったようだ。

 この坂を越えると
三枚橋。東海道はここで左折し橋を越えて行くことになるが、この場所は、直進して箱根の温泉場へと向かう「七湯道」との分岐点でもある。


         かつての三枚橋
   箱根0
         横浜開港資料館蔵



 箱根には江戸初期から湯本・塔之澤・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯という七つの湯治場の存在が確認されている。

 湯治を目的に箱根を訪れる人々はここで東海道と別れ「七湯道」を行く。

 三枚橋を渡り、東海道に沿って箱根の山へと歩を進める。現在、この道は県道湯本・元箱根線とほぼ重なっており、東海道は一部枝道のような格好で右に左にと分岐し、再び県道と合流するというかたちで残っている。

 やがて街道の左右に鬱蒼とした森が見えてくる。左手が白山神社、右手が小田原北条氏の菩提寺
早雲寺である。

 早雲寺をあとにして、五分ほど緩やかな坂を上ると
正眼寺に着く。

 この寺の歴史は古く、鎌倉時代には湯本の地蔵堂として存在していたことが、同寺に安置されている地蔵菩薩立像(俗称曽我五郎地蔵、県指定重要文化財)の胎内文書である康元元年(一二五六)銘の
地蔵・阿弥陀・観音混合印仏」から知ることができる。






地蔵・阿弥陀・観音混合印仏 正眼寺蔵
箱根5




@山崎ノ古戦場跡石碑
箱根1

慶応四年(一八六八)五月二十六日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。この一戦で、遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失い、高橋は討ち死にした





      箱根3

          B早雲寺山門と扁額

街道から見える山門は江戸時代初期に同寺が再建された時のものと推定されており、掲げられている「金湯山」という扁額は、寛永二十年(一六四三)朝鮮通信使の写字官として来日した雪峰(金義信)の揮毫によるものである。



   箱根1







 C正眼寺         箱根4
正眼寺は、慶応四年(一八六六)の戊辰戦争時、「山崎の戦い」において敗走する遊撃隊に放火され焼失した。現在の本堂は昭和七年(一九三二)、湯本湯場にあった今村繁三(今村銀行頭取)の別荘を移築したもので、明治期の別荘建築を知るうえでも貴重なものであるといえる。







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