第三節

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 道の南側に梅干しの老舗「ちん里う」がある。梅干しは、小田原城主北条早雲がその薬効と日もちの良さに目をつけ奨励したという。江戸時代には小田原宿の土産ものとして街道を往返する旅人の疲れを癒した。


 街道をさらに西へ進む。街道の北側に目をやると見付の
光円寺内の大銀杏が目に入る。秋になると美しい金色の輝きを増し、太陽にまぶしく光る。ひらひらと散りゆく銀杏に旅人は足を止めるだろう。


 左に
大久寺。日蓮宗大久寺は小田原藩主大久保家の菩提寺である。天正十八年(1590)、初代大久保忠世が建立した。


 大久寺を出ると国道一号を右に入る道がある。ここが、小田原宿の上方口(板橋口)で、箱根への第一歩を印すことになる。





H大久寺と大久保家の墓
大久寺

寺院本堂左脇の墓所には、初代忠世をはじめ、忠俊・忠隣・忠常・行忠・忠勝ら大久保一族の墓が並ぶ。大久寺には、悲劇的と思われる寺歴がある。慶長十九年(1614)、三代忠隣が京都において改易を命ぜられ、近江国(滋賀)栗太郡中村郷に移されたのち、墓参することもなく次第に衰退していった。そこで寛永十年(1633)、いったん寺を江戸下谷に移し菩提寺としたが、貞享三年(1686)、幕府老中の忠朝が藩主となり、再び元の地へ大久寺を再建したというエピソードがある。



            Eちん里う
      ちん里う

街角博物館として店の中に入ってみるのも楽しい。明治期に製造された梅干しなどが所狭しと陳列されている。







                 G光円寺光円寺内の大銀杏

浄土宗光円寺は寛永十年(1633)、三代将軍家光の乳母である春日局が開基したといわれているが、光円寺と名称したのは明暦元年(1655)、本山十三世良如光円僧正の二字「光円」を賜ってからだという。












               小田原市の歩みメモ



 明治四年(1871)、廃藩置県の断行に伴い小田原藩は小田原県となるが、十一月の再整理により韮山県と合併、足柄県となる。同八年(1875)、小田原駅(小田原城下)は新玉町・万年町・緑町・幸町・十字町の五町に編成され、足柄県の県知事(権令)に柏木忠俊を迎え、名実ともに相模・伊豆における中心地となった。

 ところが同九年(1876)、太政大臣三条実美の達により伊豆国は静岡県へ、相模国は神奈川県へと分属され、足柄県は廃止された。

 そのうえ、同二十年(1887)、東海道本線が国府津から箱根外輪山を迂回して、御殿場を経て沼津へ行くという経路は、小田原にとっては大変ショックな出来事であったが、これを契機に小田原経済界のリーダーたちは小田原・湯本間を走行する馬車鉄道の敷設を企画し、明治二十一年(1888)には始動した。

 続いて同二十九年(1896)に、小田原・熱海間を結ぶ豆相人車鉄道が開業。小田原は京浜地域と熱海・箱根の観光地をつなぐ重要な拠点となった。

 また小田原は風光明媚な地域として、明治・大正・昭和を通じ、政治家・文人墨客の避寒・避暑地として展開、京浜大都市圏をつなぐ県西唯一の商業都市として発展していった。

 昭和二年(1927)には、新宿・小田原間に小田原急行電鉄が開業、都市と県西地域との間の結びつきをより一層濃密なものにしていった。

 昭和十五年(1940)、小田原町は、早川村、網一色村、山五原村、足柄村、大窪村を合併し市制が施行される。小田原市の誕生である。

 第二次大戦後は県央地域のような都市開発はないが、昭和三十九年(1964)以降、新幹線の小田原駅停車によって広域首都圏における交通の拠点として再認識され、再び脚光を浴びることになった。

 現在、人口二十万余の都市として、自然との共生関係の中で新たな観光都市小田原を指向する。




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