第1節

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 磯町国府新宿を過ぎると、二宮町に入る。葛川に架かる橋が塩海橋。この浜で塩を製造したことにより名づけられ、実際に文政期ごろまでは塩の製造が確認される。

 
知足寺門前の水田は、承応年間(1652〜55)に万年堰をつくったとされる中原代官万年高頼邸跡と伝えられ、その広さは約六反(約5950平方メートル)ほどであった。

 二宮駅を右手に見ながら西へ進むと、まもなく山西というところへ出る。この辺りは古くから梅樹が多く、ここから梅沢の名がついたとされる。

 越地に、俗に「梅沢の立場」とも呼ばれた休憩所があり、茶店が軒を連ねていた。この立場茶屋の東に一里塚があり、街道の南側は榎、北側は欅が植えられていた。















B吾妻神社
吾妻神社
ヤマトタケルが東征の帰路、「あずまはや」となげいたことから社名がついたという。





            藤巻寺
    藤巻寺






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