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    熊沢蕃山の墓(鮭延寺)

    説明

    熊沢蕃山の墓(鮭延寺) 熊沢蕃山の墓(鮭延寺)

    栗橋で4号国道の鉄橋を渡り、古河市方向に進むと、野田、館林線と交差する十字路がある。ここの左手に1つの寺があり鮭延寺という。
    ここには著名な陽明学者の熊沢蕃山の墓がある。熊沢蕃山、名は伯継、字は了介といい、息遊軒などの号がある。1619(元和5)年京都に生まれ、8歳のとき外伯父である水戸の初代藩主徳川頼房に仕えていた熊沢守久の養子となった。すぐれた才能と勉学努力によって学者として大成し、特に中江藤樹に学んだ陽明学者として知られている。二度にわたり岡山藩に仕えて信任を得、その善政をたすけ、三千石をうけたが、39歳にして岡山藩を引退し、以後30余年間講学、著述に専念した。のち古河藩主に招かれたが時事を論じたのが幕府の忌諱(きき)にふれ古河城の一隅に禁固の身となり、1691(元禄4)年死去した。その古河城は1871(明治4)年取り壊され、城址は渡良瀬川の改修で河川敷となっている。城門は加須市樋遺川の旧家に現存している。

    蕃山堤を作った熊沢蕃山
    古河の西、渡良瀬川と思川が合流する付近は、標高が低く川が蛇行して流れ、昔から洪水がよく起きた。この付近では、江戸時代、蕃山堤と呼ばれる堤防が築かれた。背後が湿地帯であるような部分の堤防を低くしておき、増水した時、その湿地帯に水を入れ、村々の被害を少なくしようとした。蕃山堤は、貞享4年(1687)から死ぬまでの4年間、古河藩に幽閉された熊沢蕃山の考えに基づいて築かれた。
    熊沢蕃山は、中江藤樹に陽明学を学んだ。陽明学は、実践を伴う思索の中から、自分の中に備わっている良知を発揮することをめざした。蕃山は、藤樹に学んだ後、独学をし、「時・処・位」論、すなわち状況に応じて事を行うべしと説いた。だから、蕃山は岡山藩に仕えると、藩主池田光政の信任を得て、藩政の中に自分の学問を生かそうとした。状況に応じて事を行うという彼の考えは、特に治山・治水・飢餓対策などに成果をあげたといわれる。
    しかし、当時、幕府が公認していた学問は、知識を尊重し格式を重んじる朱子学だったので、彼の信奉者は多かったが、若くして家督を養子に譲り、隠居生活に入った。しかし、相変わらず彼の信奉者は多く、幕府ににらまれることを恐れ、彼の理解者であった松平信之(明石藩主→大和郡山藩主)のもとに身を寄せた。信之の死後、信之の子で、古河藩主の忠之のもとに幽閉された。

    位置

    茨城県猿島郡総和町大堤1030-1

    備考

    鮭長寺境内

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