説明
金兵衛堀
志多見・礼羽地区に水の便をはかるために、大河内金兵衛は元和7年(1621)に羽生地域の水を集め沼を利用し志多見に溜井をつくり集水して灌漑に利用した。そして寛永2年(1625)に志多見の溜井から分水して志多見・馬内・礼羽・加須にわたる約3,800メートルの灌漑用水を開さくした。この用水を後の人々は金兵衛堀と称するようになった。
現在、溜井は埋め立てられ消滅し、また金兵衛堀も三面舗装となり当時の様相は、あまりうかがえなくなってしまった。金兵衛堀の当時の様相は礼羽地区においてよくうかがえるところが残っている。