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鬼怒川・小貝川を知る

  • 鬼怒川・小貝川の歴史(舟運)

    鬼怒川は、舟運路として江戸の経済を支える重要な役割を果たしました。

    鬼怒川の舟運

    利根川水系は、東遷事業によって関東に一大水路網を形成し、江戸幕府の経済を支える大動脈としての役割を担いました。 そのなかで、鬼怒川は、小貝川と分離されたことにより、小鵜飼船の航行が可能となり、東北諸藩と江戸を結ぶルートとして、利根川水系の舟運に占める役割は重要なものとなりました。江戸で消費される米の3分の2を占めていたといわれる奥州米をはじめとして、東北諸藩からの物産を運搬し、なかでも鬼怒川舟運をもっとも多く利用利した会津若松藩は年に12~13万駄に上る荷駄を運んだといわれます。鬼怒川筋に集まってくる荷駄は、廻米のほか、最上や米沢の紅花・ろう・漆器、会津や磐城のたばこ、水戸の和紙、結城の紬、真岡の晒し木綿など多岐にわたっています。江戸から奥州方面に向かう荷駄でも最も重要な商品は食塩でした。

    鬼怒川舟運の航路

    境通りルート

    阿久津河岸などの上流部から、中流域の久保田河岸でいったん陸揚げされ、付越により境河岸へ。境河岸から再び船で利根川、江戸川へと下り、行徳河岸から、小名木川に入り江戸に運ばれました。

    大廻しルート

    船積みしたまま鬼怒川から利根川へ、そこから境河岸までさかのぼって江戸川へ出るルートが開かれました。

    新ルートの付越しが公認

    鬼怒川・利根川合流点の木野崎村に新河岸を設け、そこから陸路を馬で約6キロの江戸川左岸の今上新田に至り、再び船積みして江戸川を下るルートです。

    小貝川の舟運

    小貝川の舟運については、道仙田河岸を中心とした下流域に限定されたものでしたが、組織的に発展しました。しかし、小貝川では、福岡、岡、豊田の三大堰があり、水利用が多かったという側面もあり、上流域におよぶことはありませんでした。

    河岸の繁栄

    川を往来する船から人や荷駄を揚げ下ろしする場所を河岸といいます。河岸は、蔵や河岸問屋が建ち並び、船持、船頭、荷積みや荷揚げをする小揚、軽子などの人足なども居住していて、幕府公認の運上金・冥賀金を納める船着き場を意味していました。こうした河岸は主要街道と交差するところに発達しました。鬼怒川上流の河岸は、奥州街道が鬼怒川を渡る地点のすぐ下流にあり、阿久津河岸や板戸河岸に代表され、東北からの物資の受け入れ口として発展しました。鬼怒川中流域は、上流から小鵜飼船で運ばれてきた荷物を大型の高瀬船へ積み替えや、境河岸へ付越のために陸揚げ積み替えの河岸として、久保田河岸などが繁栄しました。

    小鵜飼船の写真
    鬼怒川の舟運で活躍した

    小鵜飼船
    浅瀬や急流に適し、吃水の浅い軽量小型の平底の木船。

    江戸時代の輸送力のイラスト
    江戸時代の輸送力

    高瀬舟 : 200~1200俵
    上州ひらた船 : 240~480俵
    小鵜飼船 : 25俵
    : 2俵(1駄)
    : 1俵

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